通信制大学で、東洋史を学んでいる関係で、
東洋史を知るためには、中国の歴史だけでは不十分だと考え、中央アジア全般を学び、モンゴル帝国時代に書かれた文献『
目次
藤村操とは
那珂通世を調べていたら、彼が
東洋史の授業とは全く関係ないのだが、つい藤村操についても深堀りしたくなった。
第一高等学校の学生であった藤村操は、118年前の今日、華巌滝で亡くなった。
藤村 操(ふじむら みさお、1886年(明治19年)7月20日 - 1903年(明治36年)5月22日)は北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感」によって当時の学生・マスコミ・知識人に波紋を広げた。
Wikipediaより引用
藤村操の生い立ち
藤村は明治19(1886)年、北海道で生まれる。
家族
父は屯田銀行の頭取、弟は後の三菱地所社長、父の弟が歴史学者の那珂通世である。
屯田銀行は、旧北海道銀行の前身である。(現存する北海道銀行とは無関係)
東京へ移住
12歳まで北海道札幌で過ごした藤村は、単身東京へ移り、開成中学から1年飛び級で京北中学へ編入。明治35(1902)年に第一高等学校(旧制一高=現東京大学教養学部)に入学した。
遺書「巌頭之感」を残して亡くなる
明治35(1903)年5月21日、制服制帽のまま失踪した藤村は、翌22日に華巌滝にて、
遺書「巌頭之感」には、「万有の真相」を追求したが「不可解」であったがために「死」を選んだというような趣旨のことが書かれてあった。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
『巌頭之感』より引用
哲学的な悩みを抱えたエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与えた。
藤村の死の影響
藤村は一高で夏目漱石に英語を学んでいた。
漱石は、藤村が自殺する直前の授業中に、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。
この事件は漱石が後年、神経衰弱となった一因ともいわれている。
夏目漱石は『吾輩は猫である』や『草枕』で、藤村の死について言及している。
一高に在学中だった岩波茂雄(岩波書店創業者)はこの事件が人生の転機であったとしている。「巌頭之感」を何度も読んで泣いたという。
岩波のみならず、当時のエリート青年は人生について悩んでいた者が多かった。
藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名にのぼった。(多くは未遂)
藤村がミズナラの木に残した遺書は、警察により削られ、その後伐採された。
固定的な身分の縛りがなくなった明治時代は、大河ドラマ『青天を衝け』の主人公渋沢栄一もそうですが、勉学や商売に励むことにより、社会的な上昇が可能でした。
しかし、その反面、挫折や疑問が彼らを煩悩させたのです。
明治時代とは違った意味で、今も苦しい時期かもしれません。
でも、終息しなかったパンデミックは歴史上ありません。
なんとか道を見つけ出して、後世に繋げていきたいのです。
肉q先生、いつもみんなを励ますメッセージをどうもありがとうございます。
https://www.youtube.com/watch?v=gIIaY37SFjo