暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

実家の母を介護するために北海道から引っ越してきました。その介護も終わり、片づけと大学通信教育部の勉強と猫と。そんな雑記ブログです。当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

プリンス北条時行の終わりなき戦い

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 小さな暮らしへ
にほんブログ村

来年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』がとても楽しみです。

主人公は北条義時

北条氏は鎌倉時代新田義貞によって鎌倉幕府が滅ぼされるまで、100年以上幕府の実権を握ってきたのです。

 

■受験生は覚えてね■
「イチ ミ サン ザン 北条氏」=1333イチミサンザン鎌倉幕府滅亡

1333年に北条氏は一味散々いちみさんざんになっただけで全滅したわけではありません。

鎌倉幕府滅亡に際し、燃え盛る鎌倉から脱出した幼子がいました。

鎌倉幕府最後の執権北条高時の2人の息子、北条邦時と時行です。

 

目次

 

逃げ上手の若君、北条時行

北条時行主人公の漫画『逃げ上手の若君』が人気です。

北条時行は、まさに物語の主人公にうってつけの人生を歩みました。

国(鎌倉幕府)を滅ばされ、王子が放浪し、国を取り戻して(仇の足利尊氏に)復習するわけです。

時行は、人を裏切ったり寝返ったりしない、まっすぐな人生を歩みます。

 

 

北条邦時

脱出した兄の邦時は弟とは別行動で伯父である五大院宗繁に連れられて、鎌倉市内に潜伏します。
しかし宗繫の裏切りにあい、捕らえられてしまいます。
邦時はきつく縄で縛られ馬に乗せられ、白昼鎌倉へ連行されたのち、処刑されます。
わずか9歳。
太平記』では、連行される邦時の姿を見た人やそれを伝え聞いた人も、涙を流さなかった人はいなかったと記しています。
なお、宗繫は主君であり自身の肉親でもある邦時を売り飛ばし死に追いやった行為が、「不忠」であるとして糾弾され、新田義貞が処刑を決めた後に辛くも逃亡したものの、誰1人して彼を助けようとはせず、宗繁は餓死したといいます。
 

北条時行逃避行

鎌倉から脱出した弟北条時行は、長野県下伊那郡大鹿村桶谷おけやでかくまわれたという説があります。
桶谷おけや」の名前の由来は「王家おうけの谷」から転じたともいわれています。
時行の誕生年は定かではありませんが、兄が9歳でしたから、それより幼いことはまちがいありません。
 

中先代の乱(鎌倉奪還)

しかしその政治に不満をもっていた者も多かったようで。恩賞ももらえないしさ😠
全国に散らばった残党もいたようで。
北条氏を裏切って後醍醐天皇に鞍替えした足利尊氏
そんな尊氏を仇とし、鎌倉幕府再興のために1335年に時行は仲間建武の新政に不満をもっていた者や散らばっていた残党)を引き連れて、挙兵します。
北条時行は、直系の血筋のプリンスですから。
これが中先代の乱です。
先代(北条氏)と後代(足利氏)の間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代なかせんだいの乱と呼ばれているのです。
 
鎌倉という土地は源頼朝以来武士にとって特別な場所。
源頼朝の再来をアピールするため足利尊氏後醍醐天皇におねだりして「征夷大将軍」となります。
尊氏は、時行にボコボコにされた弟足利直義を援護します。
昨年度大河ドラマアンコール放送されていた『太平記』での足利尊氏真田広之さんの姿が浮かびます。足利尊氏真田広之さんが演じていたら素敵でしたが、史実ではけっこうやばい奴?
 
熾烈な戦い後、時行は鎌倉を追われます。
その後、時行は行方知れずとなりますが。
 

南北朝時代

中先代の乱はひと月ほどで終わりますが、北条時行を撃退した後も足利尊氏は鎌倉を動こうとしません。
それに頭にきた後醍醐天皇は鎌倉へ尊氏を攻めますが、逆に京都を乗っ取られます。
足利尊氏って本当に戦が強い。「戦、最高!」みたいな?
後醍醐天皇は吉野の山奥に引っ込み、独自の朝廷「南朝」を開きます。
片や尊氏がたてた朝廷は「北朝」と呼ばれ、南北朝時代になります。
 
時行が起こした乱がきっかけで、足利尊氏後醍醐天皇の間に溝ができてしまったのです。
 

時行、鎌倉再奪還

太平記』によると、北条時行は、父高時に非があったとして父を死に追いやった後醍醐天皇を恨んでなかったといいます。それよりも足利尊氏が北条氏の恩を忘れて裏切り、さらに後醍醐天皇すら裏切るという行為が許せなかったのです。
時行とその一族は尊氏とその弟直義への復讐を願い、この気持ちを受け入れた後醍醐天皇は北条一族を赦免します。後醍醐天皇は仲間を増やして、京都を取り戻したいし。
 
太平記』によると延元2年/建武4年12月28日、時行は鎌倉の攻略戦を開始し、激戦となります。684年前の今日です。『鶴岡社務記録』によると12月23日。
足利方の守将足利家長を敗死させ、鎌倉を制圧します。
時行にとってこれが2度目の鎌倉奪還です。
 
しかしその後石津の戦いで敗れ、時行は伊勢に向けての出航途中で嵐に遭い、そのまま伊勢に住むようになったといいます。諸説あります。
 

3度めの鎌倉奪還も虚しく

時行が再び歴史に現れるのはそれからかなりの年月を要します。
南朝方が足利尊氏を敗り鎌倉を奪還します。
1352年、時行は3度目の鎌倉入りを果たすのです。
しかしそれからわずか2週間後、尊氏の反撃に遭い、南朝方は鎌倉を離れます。おまけに京都まで尊氏の息子義詮に奪い返され、南朝方はまたしても逼塞ひっそくさせられます。
逼塞(ひっそく)とは
落ちぶれて、世間から離れてひっそりくらすこと。goo国語辞書より
翌正平8年/文和2年(1353年)5月、鶴岡八幡宮の記録に「凶人」すなわち幕府への反逆者が捕縛されたとあります。捕らえられたのは、北条の家臣として長く仕えた「長崎」「工藤」そして「相模次郎」こと北条時行です。
鎌倉幕府滅亡から20年。長年連れ添った被官たちと共に、北条時行は鎌倉の西、龍口の刑場で斬首されました。
 
 
北条時行の生涯を追いながらもつくづく足利尊氏って戦に強いなと再認識しました。
家臣にも恵まれていたのでしょう。
戦が得意な足利尊氏は北条氏を裏切って、共に戦った後醍醐天皇も裏切って、その後の政治は弟の直義に任せて、最終的に直義も毒殺して(諸説あります)、結局直義派の臣下に反乱を起こされ、尊氏はその時の傷がもとで亡くなりました。