NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、「#俺たちの泰時」こと坂口健太郎さんがクリーンな坂東武者を好演していらっしゃいます。
朝ドラの「#俺たちの菅波」から大河ドラマ「#俺たちの泰時」へ。
俺たちの泰時は、史実ではどんな武将、そして執権だったのでしょうか。
私は『鎌倉殿の13人』のこの先のネタバレは存じ上げませんが、このブログでは史実としてのネタバレがございます。
ご注意くださいませ。
目次
泰時の出自
泰時の母は、阿波局(政子の妹も阿波局と呼ばれますが、別人)です。
『鎌倉殿の13人』では頼朝の最初の妻八重が義時の妻となり、泰時を産んだという設定でした。
阿波局は義時の側室で、身分の高い女性ではありませんでした。
泰時の弟、朝時や重時の母は比企氏の娘でしたから、血統的には後継者に相応しかった。
北条泰時の正室
泰時は建仁2年8日23日に三浦義村の娘(矢部禅尼:『鎌倉殿の13人』では福地桃子さん演)を正室に迎えます。
ユリウス暦では1202年9月10日。820年前の今日です。
その翌年に嫡男時氏が生まれるのですが、後に三浦氏の娘とは離別し、安保実員の娘を継室に迎えています。
なぜ矢部禅尼と離縁したのかは、不明です。
矢部禅尼は、三浦一族の佐原盛連に再嫁しました。三浦一族滅亡にあたり、矢部禅尼の子供たちの佐原氏は三浦一族で唯一生き残り、のちに三浦姓を名乗ることを許されて三浦家を最高しています。矢部禅尼は盛連亡き後も、1256年まで長生きします。享年70。
泰時が後継者になった理由
母の出自が高い朝時や重時ではなく、泰時がなぜ後継者となれたのか。
- 和田合戦や承久の乱などにおいて最前線で戦い、武勲を立ててきたこと。
- 六波羅探題北方として京都に滞在中に朝廷の政治手法を間近で体験し、当代きっての文化人と交流したこと。
- トップとしての自覚があったこと。
トップとしての自覚があったということはどういった点でしょうか。
高貴な家柄ではない北条氏は実力と陰謀とそして、御家人の助けが必要でした。
父である義時は謀略をめぐらす際にも、御家人の評判を意識し、大きな決断の際には、一旦、御家人や文官などの意見にも耳を傾けるリーダーでした。
御家人たちの「世論」をうまく吸収することが、北条型リーダーシップの要諦なのです。
『鎌倉殿の13人』では小栗旬さんがいつも御家人たちの意見をまとめるのに奔走してますよね(笑)
泰時の性格と政治
義時の死後、遺産分配が行われます。
泰時は後継者として、義時の遺産の配分を決め、書類にして尼御台政子に渡しました。
それを見た政子は「あなた(泰時)の分がほとんどありませんよ」と泰時に問いました。
泰時は自分の取り分をわずかにとどめ、ほとんどを兄弟や親族に分けてしまっていたのです。
「執権を承った身として所領などの事はどうして強いて競い望むことがありましょうか。ただ舎弟らに与えようと思います。」政子は頻りに御感涙を流されたという
『吾妻鏡』貞応3年9月5日
泰時は、北条家の当主として度量を示すために、所領の配分に太っ腹なところをアピールしたのです。
泰時は北条氏のなかでも、最も優秀なリーダーと考察される研究者は多いです。
安定した政治システムを作りだし、御成敗式目の制定や鎌倉と六浦津(現在の横浜市)を結ぶ朝夷奈(朝比奈)の切通、和賀江島の港など鎌倉の都市整備をおこないました。
「執権」とは何ぞや
この頃、評定衆を招集し、主導する役職が「執権」と呼ばれ、将軍に代わる幕府政治のトップとなりました。
『鎌倉殿の13人』では時政が執権になり、浮かれポン吉になっていますが、『吾妻鏡』では、時政を「執権」と直接呼んではおらず、義時を初代、泰時を二代目として扱っています。
北条氏とは将軍の家来のはずですね。
その将軍だって、天皇の臣下なんです。
しかし、日本の歴史では、形式よりも実質。タテマエよりもホンネです。
将軍を上に戴いて、北条氏が執権として幕府を動かす。
そうゆうことね!
鎌倉時代の将軍
北条氏が執権として権力を掌握し続けていても、一応征夷大将軍は存在したわけですよ。
👇参考文献