鎌倉時代前期の武将、源義経は幼名牛若丸、のちに九郎判官と称しました。
源頼朝は異母兄です。
目次
義経の活躍
兄頼朝の挙兵に参じ、元暦元(1184)年、兄源範頼とともに源義仲を討ち入洛し、次いで摂津一ノ谷で、平氏を破ります。
帰洛後、洛中の警備にあたり、後白河法皇の信任を得、頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉となったため、怒りを買い、平氏追討の任を解かれます。
文治元(1185)年再び平氏追討に起用され、讃岐屋島、長門壇の浦に平氏を壊滅させます。
梶原景時との不和?
屋島・壇の浦合戦では、梶原景時と総大将義経が戦術を巡って争ったそうです。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第16回「伝説の幕開け」でも菅田将暉さんと中村獅童さんの戦略における意見が割れてましたね。
この争いの恨みでしょうか。
景時は頼朝に義経を
この景時の
腰越状
義経は兄頼朝との不和が深まり、捕虜の平宗盛父子を伴って鎌倉に下向したものの、鎌倉入りを拒否され、腰越(満福寺)に
この時、頼朝の勘気を晴らすため、大江広元にとりなしを依頼する手紙(腰越状)を送りました。by『平家物語』
義経の最期とその後
しかし頼朝の勘気は解けず、かえって義経の迫害が続きます。
義経は自分を養育してくれた奥州の藤原秀衡を頼るのですが、秀衡の死後頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ自刃するのです。
文治5(1189)年4月30日。833年前の今日です。
義経の没後、数奇な運命と悲劇から多くの英雄伝説が生まれました。
『義経記』や『平家物語』にも著され、さらに能、歌舞伎などの作品になり、現在でも「判官もの」として親しまれています。
「判官贔屓」という言葉はここからきています。
本当は美少年ではなかった?
「一ノ谷の戦い」では馬に乗ったまま断崖絶壁から駆けおりて奇襲をかけたり、「壇ノ浦の戦い」では8艘の船に次々飛び移って平氏を混乱させたりと、とにかく戦に強い義経なのですが、今までのドラマでは「義経」を演じる俳優さんは「美少年」ばかり。
『鎌倉殿の13人』菅田将暉さんもイケメンですね。
「薄幸」が「美少年」と結びつくのでしょうか。
『平家物語』には「義経はチビで出っ歯。だから遠くにいても義経だとすぐにわかる」と書かれています。
『平家物語』は義経の死後まもなく書かれたので、信憑性は高いと思います。たぶん。
4月27日㈬に放送したNHK総合『歴史探偵』は源義経についてでした。
NHKプラスで5月4日㈬午後10:44まで視聴することができます。