イメージとして、鉄砲を最初に戦場で使用したのは織田信長であると思っている方は多いのではないでしょうか。
織田信長が足利義昭を追放したのが、元亀4(1573)年7月。
しかし、信長より20年早く将軍を追放したのが三好長慶であり、天正3(1575年)の長篠の戦いよりはるか前に戦場で鉄砲を使用したのも三好長慶でした。
目次
鉄砲伝来
『鉄砲記』によれば、天文12年(1543)年8月25日、大隅国の種子島、西村の小浦(現前之浜)に1艘の船が漂着しました。
小学校で習ったかと思いますが、この時ポルトガル人から鉄砲伝来されます。
ポルトガルの船ではなく、中国の船でポルトガル人がやってきたのです。
その中国の船の主は五峯です。五峯(本名王直=倭寇の親玉)が西村時貫に筆談で事情を説明し、船は赤尾木に入港できました。
五峯は中国東南アジアと密貿易を行っていました。彼らは武装しているので「倭寇」と呼ばれていたのです。
鉄砲は遅くとも天文18(1549)年までに、種子島の本源寺から堺の顕本寺に届けられています。
中尾城の戦い
天文19(1550)年7月14日には、京の東山で行われた細川晴元と三好長慶の戦闘(中尾城の戦いの始まり)で、銃撃による戦死者が出たといいます。by『言継卿記』
472年前の今日です。
おそらくこの文献が、鉄砲が戦場で使われていることが記載されている1番古い物だと思われます。
三好長慶
人材登用
三好長慶は父が細川春元に謀反の疑いで、殺され、その時に三好家は多くの家臣を失っています。
そのため長慶は、越水城の主となった時に大胆な人材登用を行います。
身分や家柄にとらわれず、幅広い階層から積極的に優秀な人材を取り立てていったのです。
鉄砲入手
また長慶は、法華宗の交易ネットワークを利用し、鉄砲を手に入れます。
『万松院殿穴太記』には、三好側と敵対する陣営の記録として「二重に壁を付て間に石を入れたりこれは鉄砲の用心なり」とあります。
壁を二重にして隙間に石を埋め込み、鉄砲の玉が侵入するのを防いでいたという記録です。
すでに長慶が大量の鉄砲を実戦投入していたことが伺えます。
まとめ
三好長慶が、信長よりはるか昔に、最新式兵器の鉄砲を戦いで使用していました。
鉄砲だけでなく、長慶は信長の天下とりのための道しるべになっていたのではないかとさえ思うのです。
三好長慶は大好きな武将です。
彼については、いずれまた。