今日で、今月の4日間のスクーリングが終了しました。
四苦八苦した「続日本紀」の解読。
でも今まであまり興味のなかった奈良時代が見えてきました。
でもその中身は?
私の感想としては。
「奈良時代って、かなりドロドロの時代だったのね。」
わずか84年の間に〇〇の乱やら△△の変やら、揉め事たくさんあります。
それも戦国時代のように天下統一とか、幕末から維新にかけての「新しい国を作る!」とかの志ではなく。
「俺をもっと優遇しろよ~」とか
「俺が天皇になるんだ!」とか。
かなり個人のわがままオーラ満載のクーデターばかりです。
先日書かせていただいた「長屋王の変」
これ以外の内乱をざっとかる~く見てみます。
740年 藤原広嗣の乱
これ、面白くありません。
だいたい藤原広嗣はあまり素行の良くない人物です。
長屋王の変の後、首謀者藤原四兄弟が疫病で全員亡くなり、その後橘諸兄が右大臣になり、政界のトップに躍り出ます。
すると藤原広嗣が「俺にももっと高い地位をくれよ~」と自己中心的な主張をします。
聖武天皇は「だめ!」と一刀両断。
藤原広嗣は乱を起こしますが、あっというまに鎮圧されます。
757年 橘奈良麻呂の変
藤原仲麻呂も橘奈良麻呂も藤原不比等(藤原鎌足の息子)の孫なのですが、奈良麻呂が仲麻呂を倒そうとクーデターを起こすのです。(名前似てるからややこしい)
クーデターは失敗に終わり、橘奈良麻呂についた有力者たちが命を失い、藤原氏以外の橘、大伴、佐伯氏族の没落がすすみます。
また直系を大切にするために子が少なくなったということもあります。
こうやって、平安時代に向かって藤原氏の独占政治に向かっていくのですね。
764年 藤原仲麻呂の乱
「橘奈良麻呂の変」後、太政大臣になる藤原仲麻呂ですが、仲麻呂の権勢も光明皇太后(聖武天皇の奥さん)亡き後、孝謙天皇との摩擦が大きくなり、孝謙天皇が道鏡と密な関係になっていくことで、淳仁天皇&藤原仲麻呂VS孝謙天皇(孝謙上皇)&道鏡という対立を深めて行きます。
結局、孝謙上皇&道鏡が勝利し、藤原仲麻呂は討ち取られます。享年59歳。(私が考えていたより、けっこう高齢でした)
この乱に淳仁天皇は加担していなかったのですが、藤原仲麻呂と仲が良かったという理由で追放され、淡路島に流されてしまいます。
翌年、病死ということですが、これは怪しい。お葬式が行われた記録もないのです。これ、絶対に暗殺でしょ!
769年 宇佐八幡神託事件
こうやって、道鏡は孝謙天皇(淳仁天皇の後称徳天皇となり重詐しています)の力をもって、「よし、今度は自分が天皇だ!」と調子にのってしまうのですが、「自分を天皇にすれば天下泰平だ」との神託があったと申し出たのですが、これが虚偽とわかり、追放されてしまいます。
・・・とざっと見ても、これだけの乱やら変やら事件やらが起こっています。
「続日本紀」は桓武天皇の時代に編纂された書物であり、過去のことを記録にしたものです。
なので、都合の悪いところは記せず、編纂された時期の権力者のいいように編纂されているので、すべてが真実ではない可能性があります。
近年では木簡などが多数発見されており、これらが解読されれば、もっと新しい歴史が見つかっていきますね。
やっぱり歴史面白い!
史学科にして良かった。
講義はとても楽しかったです。
最後に実施されたテストもなんとか大丈夫だと思います。
でもレポートはちょっと危ないかも(笑)
北海道からこのスクーリングに参加された方が、「白い恋人」をお土産に持ってきてくれましたよ。
今週のお題は「読書の秋」
「続日本紀」読んでみない?