暮らしと勉強、猫も介護も~Bettyのブログ

実家の母を介護するために北海道から引っ越してきました。片づけと大学通信教育部の勉強と猫と介護と。雑記ブログです。

「日本」を生んだ戦い、壬申の乱

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壬申の乱

(倭)」と呼ばれていたこの国が「日本」へと改めるきっかけとなった戦い。

大海人皇子大友皇子が王位を争って戦った古代最大の内乱です。

その壬申の乱からおよそ50年後に成立した『日本書紀』に記された壬申の乱の経過によると。

大海人皇子は権力に野心がないことを示すために出家、吉野に隠棲していた。

都にいた大友皇子大海人皇子を殺そうと企て兵を集め始めた。

そのため仕方なく大海人皇子も挙兵。

結果1か月後には大海人皇子の大勝利となった。

天武天皇元年7月23日に大友皇子は自決。ユリウス暦672年8月21日のことです。

1349年前の今日です。

こうして大海人皇子天武天皇となるのです。

 

日本書紀の記載からみる「壬申の乱」■
壬申の乱大海人皇子の正当防衛であった❓

 

日本書紀』の記録を鵜のみにするとそうゆうことです。

ほんとかな?

記録というのは勝者(大海人皇子)の都合よく描かれていることが少なくありません。

 

目次

 

日本書紀』に記された壬申の乱

大海人皇子天智天皇の弟。

天智天皇亡き後、天智天皇の息子である大友皇子が後を継ぎます。

そこて「大友皇子が狙ってるよ。命が危ないよ。」との知らせが入ります。

それを聞いた大海人皇子は言います。

今、已むこと獲ずして禍を承けむ

何ぞ黙して身を亡さむや

直訳すると、「今やばいことが起ころうとしてるじゃん!このまま黙ってるわけにいかねぇぜ!」です。

大海人皇子は正当防衛のためにやむなく挙兵することを決断します。

出発した時は大海人皇子の奥さんである鸕野讃良皇女うののさららのひめみこなどわずか30人程度だったのが、途中で次から次へと兵が集まってきて、出発後わずか4日でその兵は3万人近くになります。

 

■「うののさらら」って誰?■
鸕野讃良皇女は後の持統天皇です。天智天皇の娘で天武天皇の姪にあたります。叔父の天武天皇大海人皇子)と結婚しました。父の天智天皇中大兄皇子)がクーデターを起こした「大化の改新」の年に生まれました。

 

 

大友皇子も慌てて兵を集めようとしますが、うまくいかず、両軍の直接対決では大友皇子軍は一方的な敗北となり自害、大海人皇子は吉野出発からわずか1か月で完全勝利をおさめます。

 

日本書紀』を史料批判で分析する

兵が簡単に集まりすぎ

大友皇子からの攻撃の危険を知り、わずか4日間で3万もの兵が集まったとは考えにくい。

吉野を出発して道中で、伊賀の兵やら高市皇子やら美濃の兵やら尾張の兵やら次々とあっちからこっちから集まってきて、4日後、不破に到着するころには3万も集まっていたっていうね。

国道306号経由で、吉野から不破までは160㎞。Googleマップさん調べ

当時はもちろん306号線なんてありませんね。

 

日本大学教授で歴史研究家である小谷賢先生はこの兵集めの珍道中を「わらしべ長者じゃあるまいし。」と、『日本書紀』の記述を一刀両断。

絶対用意周到、兵を集めて機を伺っていたでしょ。

これが史料批判です。

 

史料批判って何?■
史料批判とは歴史学を研究する上で史料(今回は『日本書紀』)を用いる際、様々な面からその正当性、妥当性を検討すること。

 

大海人皇子の腹黒い本音

天智天皇崩御する前に弟である大海人皇子に「後を頼む」と遺言しています。

しかし、その時の日本(倭)の対外情勢を考えて、大海人皇子は豪族たちからの批判を考慮し、天智天皇の申し出を断っているのです。

面倒なことをやりたくない…という気持ちではなく、もっと腹黒いのが大海人皇子です。

面倒な時期の王位は継承せずに、その後もっと上手なやり方で王位奪還をしようと狙っていたのではないか?

その面倒な時期とは外交問題に関係があります。

 

当時の日本の対外関係

壬申の乱の少し前、663年に、朝鮮半島白村江の戦いというのがありました。

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日本(倭)にとって初めての海外戦争でした。

当時の政治は中大兄皇子天智天皇)が行っていました。

その時日本(倭)が味方したのは、百済くだらでした。

 

百済ってどこの国?■
百済とは古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。朝鮮半島三国時代には、百済新羅高句麗の3つの国がありました。

 

朝鮮半島に大軍を派遣するも、巨大な唐の前には歯が立たずわずか2日で大惨敗でした。

そのため日本(倭)は「唐」という大きな国を相手に対外的脅威にさらされることになります。

結局、唐は新羅しらぎとの戦いに忙しく、日本(倭)に攻めてくることはありませんでした。

日本(倭)は結果、新羅とも唐とも仲良くして両面外交を行いますが、それも長くは続かず、唐は新羅との戦いを支援しろと迫ってきます。

 

結局、大海人皇子天武天皇として即位した後、唐と新羅のどちらに味方することなく、遣唐使の派遣も取りやめます。

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その後、半島での戦いでは新羅は唐に勝ち、日本(倭)は唐に支援することもなく、ましてや唐から報復を受けることもなく、外交問題の難局は乗り越えられたわけです。

 

天武天皇の業績

大海人皇子天武天皇になったことで、大陸への不介入政策が貫かれました。

そういった意味では天武天皇は外交センスがあったといえるかもしれません。

天武天皇は、藤原京に繋がる都市計画を整え、大宝律令の成立、『日本書紀』の編纂に着手します。

飛鳥池工房遺跡から富本銭が見つかったことから、天武天皇が銅銭を使うようになったことがわかります。

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画像はイメージです

またこの遺跡からは「天皇」と書かれた木簡が見つかり、これにより天武天皇の時代から「王」という呼び名から「天皇」に変わったことがわかります。

天武天皇の事業は歴代の天皇に引き継がれ、この国初めてとなる律令が完成した翌年、702年に33年ぶりとなる遣唐使が大陸へと渡ります。

使者は唐の皇帝に「日本国」という新たな国名を宣言したといいます。

 

影の立役者

大海人皇子は、天智天皇崩御の際に王位継承を受けてもよかった。

しかし、大海人にすぐすんなりと継承させてはいけない人がいた。

それは誰か。

大海人皇子の妻である鵜野讃良皇女、後の持統天皇です。

壬申の乱の兵の配置も鵜野讃良皇女がやっていると記録されている書もあります。

日本書紀』には大海人皇子と共に謀を定め」とあります。

となると、壬申の乱を起こしたのも彼女?

結局天武天皇が試みた政策を引き継いだのも持統天皇だし。

結局アンタが黒幕かい!

さすが悪女と名高い持統天皇だわ。

なんたって、テロリスト天智天皇の娘だもんね。

 

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天武天皇が唐の誘いにのらず、大陸の戦争に巻き込まれずにすみました。

この後日本は、秀吉の時代まで、外国との揉め事に関わらずにすみます。

また壬申の乱の後、源平合戦あたりまで大きな内乱もしばらくは起こりません。

王権争いの小さな揉め事はこの後も多々ありますが。

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以上、NHKBSプレミアム『英雄たちの選択』の過去の放送をまとめてみました。

 

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