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大化の改新
そもそも大化の改新の信憑性すら疑う研究者もいるわけで。
『日本書紀』が描く大化の改新が、その編者による造作であり、虚構にすぎないとする改新否定論というのがあるわけです。
また改新詔は『日本書紀』の編者が造作したものであり、7世紀なかばころに国際的な国家としての危機感はなく、公民制に基礎を置く律令的な国家理念は存在したなかったのではないかとみるのです。
つまり歴史上重要な位置づけをもつ大化の改新という事件は存在しないのではないかという考え方もあるのです。
中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足をヒーローにするために、701年の大宝律令以降に改ざんされていたのではないか、その証拠に大宝律令と改新詔はほとんど同じじゃないか!ってとこでしょうか。
これはシロウトのブログですから、学生の皆さんは教科書に沿って歴史を勉強してくださいね。
古代日本のプランナー、藤原不比等
飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した藤原不比等(659~720)。
天皇の側近として使え法律を整備し、国史を編纂。新たな都を築きこの国の基礎を創り上げていきました。
決して天皇に成り代わろうという思いはなく、古代日本のプランナーとして、活躍した人物が藤原不比等でした。
新羅をモデルにするのではなく、唐をモデルにして国造りを進めていきました。
持統天皇から優遇
壬申の乱が勃発します。
不比等に近い中臣氏や田辺史の一族は負けた負けた大友皇子に加担していたため、その後冷遇されることになります。
目立つ働きもなく不遇の不比等を歴史の表舞台へ引き上げたのが、天智天皇の娘であり天武天皇の后である鵜野讃良皇女(後の持統天皇)でした。
『日本書紀』のからくり
皇位継承の立役者としてあれこれ画策し、政界一の実力者として脚光を浴びていく不比等。
この国史こそわが国初の勅撰国史『日本書紀』です。全30巻で41代の天皇の功績が綴られます。
神々が住む高天原を支配する
実在する持統天皇をモデルに天照大神の神話を創り上げた立役者は藤原不比等ではないかという研究者もいます。
天照大神が孫の
天照大神から始まった王統が今ここにあってその血を引くあの持統天皇がおられるというストーリーに結びつけるのが藤原不比等の目的だったのでしょう。
文武天皇を意識してその血筋がずっと続くように極めて政治的な意図に基づいているわけです。
不比等は、万世一系の皇統が持統天皇文武天皇へと引き継がれることがこの国が型として歴史に残そうとしたのかもしれません。
不比等の妻
藤原不比等は天武天皇の未亡人を妻にし(当時は一度天皇の妻になった人は天皇の未亡人としてずっと生きていくのが通例だった)、それを持統天皇に認めさせちゃう。
この天武天皇の未亡人というのが、
で、子供(藤原麻呂)まで生まれるという(◎_◎;)
不比等の孫、不比等の死、そしてその後
持統天皇が崩御、不比等の娘が文武天皇に嫁ぎ、首皇子が生まれます。不比等の孫です。
そして文武天皇が若くして亡くなる。
文武天皇が慶雲3(706)年に病に倒れてから崩御するまでの間、不比等があれこれ根回しする様子が『続日本紀』に描かれています。
当時まだ幼かった首皇子がスムーズに天皇になれるように。そのため腰かけ天皇を用意します。
こうして首皇子は神亀元(724)年、聖武天皇として即位します。
しかし、藤原不比等は、孫の首皇子が即位する4年前、養老4(720)年8月3日に病死します。享年62。1302年前の今日です。
不比等の死後、その息子たちが長屋王を陥れ、その祟りで不比等の息子たち藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が次々に亡くなったりするんだけど。
今日のブログは以前放送されたNHKBSプレミアム『英雄たちの選択』をまとめてみました。