昨日のブログで「大化の改新」について触れました。
645年大化の改新。
その時、ご近所の唐は朝鮮半島へ攻め入るようになっていったのです。
当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が覇権を争っていました。
その中の新羅は、高句麗と百済の両方から攻められるようになり、新羅は唐に助けを求めたのです。
654年、百済は大飢餓に襲われ、国政も治安も悪化し、そこに新羅を従えた唐軍が侵攻計画を進め、とうとう660年に百済は滅亡します。
これが「白村江の戦い」の始まりです。
このあたり、先月のNHKBS「英雄たちの選択」でくわしくやっていました。(一昨年の再放送でしたが)
「白村江の戦い」は来週のスクーリングの試験の範囲内であると昨日告知がありました。
「すごい偶然。『英雄たちの選択』観ておいてよかった!」
「白村江の戦い」に参加した倭国(日本)
当時日本には百済の王子、扶余豊璋(ふよほうしょう)が留学のため滞在していました。
この時代に留学ってあったんだ~そうだ、遣隋使や遣唐使だってあったんだもんね。
というより、日本は高句麗とも百済とも新羅とも、そして唐ともほどよい関係を保とうとしていたらしいです。
このころの天皇は斉明天皇ですが、中大兄皇子が中心となり政治が行われていたようです。
決断権はすべて中大兄皇子にあったと思われます。
中大兄皇子は百済を支援、よって倭国は唐や新羅とは対立を深めていきます。
唐のような大国を敵にまわしちゃって大丈夫かな。←いや、大丈夫じゃないよ!
画像はお借りしたものです
「白村江の戦い」でボロボロに・・・
百済から要請を受けた倭国(日本)は3回に分けて軍を派遣します。途中661年に斉明天皇は崩御。中大兄皇子が即位をしないまま執務を引き継ぎます。
1回めと2回めまではなんとか日本軍もがんばった。
でも663年、白村江で唐の軍と遭遇。全面戦争になります。
唐の軍船に挟撃され、倭軍は大混乱に陥り、その際にたくさんの倭兵が白村に飛び込み、溺死します。
圧倒的な軍備と高度な指揮系統で勝る唐に倭国(日本)は大敗。
倭軍と一緒に朝鮮半島へ帰国していた扶余豊璋(ふよほうしょう)は高句麗に逃亡、倭軍の軍船は逃れてきた百済将軍や民衆を乗せて日本へと帰国しました。
今度は新羅が唐を追い出して、676年頃に朝鮮半島は新羅によって統一されます。
やるな、新羅!結局高句麗と百済にやられそうになった新羅は、大国である唐に助けられ、高句麗と百済が滅ぶと唐を追い返すという、1番美味しい国が新羅?
この後、天智天皇や天武天皇の時代になった日本は新羅との関係は良好になってゆきます。
「白村江の戦い」後の日本
唐のような大国との戦争で、己の力を思い知った日本は、天智天皇(中大兄皇子)のもと、国防を強く意識するようになります。
大陸からの侵攻に備え、大宰府に水城や山城を建設、対馬と筑紫には防人を置きました。
2016年福岡県筑紫野市の前畑遺跡で、古代の大宰府を防衛した外郭線とみられる土塁もみつかっています。500mもある7世紀の土塁がこの21世紀に発見ってすごくない?
また、唐に習って、戸籍を作り、律令制度をすすめていきます。
日本国家を作る上で天智天皇の力は大きかった。
これを天武天皇や持統天皇が引き継ぎ、奈良時代から平安時代へと続くわけです。
「白村江の戦い」は日本にとって、最初の大国との戦争であり、最初の敗北でした。
その後、唐の影響を大きく受け、自国の内政を急速に整えていきました。
そう、これは第二次世界大戦に敗戦し、アメリカの影響を大きく受けて政治を立て直していった昭和の日本と似ているのです。
三田誠広氏の著書、一時期よく拝読させていただきました。
ちょうど、長男が中学受験をする時にこの「パパは塾長さん」という本がとても参考になりました。
「いちご同盟」や「父親学入門」など、子供が思春期だった頃に参考にさせていただきました。