暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

実家の母を介護するために北海道から引っ越してきました。その介護も終わり、片づけと大学通信教育部の勉強と猫と。そんな雑記ブログです。当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

バサラ大名、佐々木道誉

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昨年4月から1年間、NHKBSプレミアム大河ドラマアンコールで放送していた『太平記

主人公足利尊氏の友であり同志のような形で描かれた佐々木道誉どうよ(ドラマでは佐々木判官はんがんと呼ばれていました)を演じてらしたのは陣内孝則さん。

太平記』は1991年に放送された大河ドラマで、主人公真田広之さん、そして柳葉敏郎さん…という当時旬の俳優さんたちは、月9か「ニューヨーク恋物語」かって感じのおしゃれな雰囲気ムンムンでした。

 

 

目次

 

バサラ大名とは

時代の変わり目には強烈な個性の武将が現れる?

バサラ大名として名を馳せた佐々木道誉

婆娑羅ばさらとは奇抜な衣装と振る舞いで注目を集め、古い権力や秩序を物ともせず、常識破りの行動をする人たちを現した言葉です。

■バサラとは■
サンスクリット語vajra(バジラ)から転訛てんか金剛石(ダイヤモンド)を意味する。

 

足利尊氏と同じ時代を生きた武将であり、この時代の精神を象徴した生き様を貫いた佐々木道誉南北朝の動乱を裏切り裏切りで切り抜けてきました。

今でいうヤンキーというかパリピです。

 

裏切りに次ぐ裏切り、そんな生き方

滋賀県米原市が近江と呼ばれた時代に佐々木道誉は生まれました。

エリート御家人であった道誉は都の治安を守る仕事に就いていました。

 

裏切り①鎌倉幕府から天皇方へ

元弘元(1331)年後醍醐天皇鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵するも捕らえられ、隠岐の島に流される時に護送役となり、その十数日の道中に道誉は後醍醐天皇から幕府を討つ理由を聞かされ、幕府側から天皇側へ寝返ります。

この時に行動を共にしたのが足利尊氏

鎌倉幕府の北条氏を追いつめます。

■覚えよう■
元弘3(1333)年5月鎌倉幕府滅亡。6月には後醍醐天皇による建武の新政が始まる。

 

建武の新政は評判が悪く、建武2(1335)年には北条氏の残党が鎌倉を占拠しますが、足利尊氏佐々木道誉はこれを蹴散らし鎌倉を奪還します。

尊氏はそのまま鎌倉に居座り、天皇の許可を得ず功績のあったものに恩賞を与えますが、この勝手なふるまいに後醍醐天皇はムカつき、討伐軍を派遣します。

 

裏切り②天皇方から尊氏派へ

道誉は尊氏をそそのかし、共に天皇と戦うことになります。

 

裏切り③尊氏派から天皇方へ

道誉は駿河天皇方と激戦して負傷、即座に天皇に降伏し、足利尊氏をあっさり裏切り天皇方につきます。

 

裏切り④天皇方から尊氏派へ

が、6日後天皇方として足利軍と対峙するも、足利軍が有利と知ると、これまたあっさり天皇方を裏切って、足利方に寝がえり、天皇方を散々に蹴散らします。

そして後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を創設するのです。

光明天皇は尊氏の尽力で即位して北朝が成立しています。

南朝北朝、二つの朝廷、これが南北朝時代です。

 

■覚えよう■
建武3(1336)年11月、京都に足利幕府(室町幕府)が開かれる。
 
南北朝が合一されるのは、三代将軍足利義満の時代です。室町幕府を支えているボスたちを排除して将軍権力を高めたおかげで成功しました。1392年。「いざ(13)くに(92)はひとつ~南北朝合一~」と覚えましょう。
 
裏切ってナンボ
この時代は裏切り上等!コロコロ方針を変えていくことで生き残っていくわけです。
足利尊氏だって反鎌倉幕府勢力の鎮圧をする予定が、なんと六波羅探題を攻めて京都を制圧しちゃったんですから。六波羅探題はびっくりしたでしょう。助けに来たヤツに攻められたんですよ。泥棒に入られて困っているときに警察を呼んだら、警察もピストルを持って「お前も金出せ」と言い出したようなものです。
 

 

室町幕府における佐々木道誉

こうして佐々木道誉は、裏切りに裏切りを重ね、足利尊氏が起こした室町幕府の重要なポストに就くことになります。
 
ヤンキーだけど文化人の道誉
道誉は、連歌、田楽、猿楽、茶道、香道、立花に通じた文化人でもあり教養人でした。
これを武器に室町幕府では公家との交渉を務めています。
幕府と朝廷のパイプ役だったのです。
 

尊氏の死後

足利尊氏観応の擾乱の戦いで受けた傷が元で他界します。

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二代目将軍足利義詮よしあきらを補佐したのが佐々木道誉でした。

道誉を含む評定衆で政務を行っていましたが、その中で権力争いが絶えません。

佐々木道誉仁木義長兄弟を京都から追い払い、細川清氏を密告で蹴散らし、最後は斯波高経しばたかつねを騙して排除します。

 

当時幕府の主導権を握っていた高経は家柄が足利一門であったことが強みで、要職を一族で独り占めし強引な政策を推し進めていました。

高経が主催した花見の宴に参加すると見せかけて、道誉は同じ日に違う場所で花見を盛大に開きます。

道誉の盛大な花見と裏腹に高経主催の花見に客は集まらず、赤っ恥をかかされます。高経はこれがきっかけとなり、京都を追われることになるのです。

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こうして道誉は最後まで幕府の中心であり、領民にも慕われていたといいます。

道誉、70歳の古希の祝に描かれた肖像画に自筆で言葉を残しています。

「浮き沈みの激しいいろいろなことがあった人生だった

しかし私は世間の噂など気にしない

私のすることは理解されなくていい」

長生きした道誉は、応安6年8月25日(西暦1373年9月12日)に亡くなります。648年前の今日です。

 

この時代に生きた佐々木道誉の果たした役割として、武士は強いだけではなく文化文芸が理解できないと駄目なんだと武士たちが文化人としてもアップデートしていくことを後世に繋げていったのではないかと。

それがこの先何百年も武家の時代が続くひとつの理由になったのではないかと考察されるのです。

 

 
昨年『太平記』がアンコール放映中に、放送されたNHKBSプレミアム『英雄たちの選択』をまとめてみました。
教科書には出てこない第一戦で活躍したわけではない武将ですが、考察してみると大きな役割を果たしていることがわかります。
入試の勉強にはあまり関係ないかもしれない佐々木道誉
鎌倉幕府から室町幕府へと、時代の転換期は入試のポイントになります。佐々木道誉が生きた時代の背景は勉強してくださいね。