「いだてん」を今日の再放送で観ました。
第34回の「いだてん~東京オリムピック噺~」は「226」
そう。昭和11年の二・二六事件です。
今日は二・ニ六事件について少し述べさせてください。
目次
「いだてん」の中の二・二六事件
第34回「いだてん」では前半に二・二六事件についてパニックになる新聞社などの様子が描かれていたものの、事件そのものについては、サラリと流す程度でした。
後半はオリンピック招致に向けての物語ですね。
「いだてん」はオリンピックの物語ですし、それは当然なのですが、私は大河ドラマでもっと二・二六事件について触れてほしかった。
関東大震災から太平洋戦争集結までの暗い時代を大河ドラマで扱うことは決して多くありません。視聴率とれそうにないですもんね。
戦国時代と幕末明治が多い大河ドラマですから。
昭和初期、大河ドラマで扱いたくなるようなヒーロー的人物がいないというのも理由でしょう。
この時代に幕末や明治維新にいたようなヒーロー的人物が存在していたら、太平洋戦争は起こらなかったかもしれない。あくまで私の個人的な意見です。
二・二六事件の概要
1936年(昭和11年)2月26日早朝。東京には10cmほどの雪が残っていました。
歩兵第一・第三連隊、近衛歩兵第三連隊など約1500人の在京部隊が、首相・蔵相官邸、警視庁はじめ、政府首脳や重臣の官・私邸、朝日新聞社などを襲撃しました。
指揮にあたったのは栗原安秀中尉、安藤輝三大尉、野中四郎大尉、免官となっていた村中孝次、磯部浅一ら皇道派青年将校でした。
この時、岡田啓介首相と誤認された義弟で秘書であった松尾伝蔵海軍大佐が射殺されたのをはじめ、高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負いました。
また神奈川県湯河原滞在中の前内大臣牧野伸顕も襲われましたが、危うく難を逃れました。
画像は現在の湯河原温泉。
遺作となりました。
存在感ある見事な高橋是清でした。
昭和天皇の気持ち
二・ニ六事件に対しての昭和天皇の怒りは大きいものでした。
それは『昭和天皇独白録』でも読み取れますし、事件当時侍従武官長だった本庄繁の『本庄日記』にも昭和天皇の動向がわかる記載があります。
8月15日に放送されたNHKスペシャル「全貌 二・二六事件~最高機密文書で迫る」では、昭和天皇が在任中最も記憶に残っているのがポツダム宣言の決断と「二・二六事件」であると語られています。
番組では当時決起部隊だった人や陸軍鎮圧部隊だった人のインタビューも収録されています。ご存命のおふたりは共に103歳。すごい。
事件後83年たった今年、重大な極秘文書を発掘し、それに基づき事件の全貌が明らかになっていきます。
文書を密かに記録していたのは海軍でした。
二・二六事件がもたらした国家への影響
「事件は天皇と国民のために起こした」と語る決起部隊の青年将校たち。
しかしその思いとは裏腹に、待っていたのは厳しい判決でした。
「天皇のために・・・」と名指しされた昭和天皇は信頼する側近たちを襲われ「朕(ちん=自分)が首を真綿で締むると同然なり」との怒りを露わにしています。
いや、この二・二六事件より4年前の五・一五事件の時だって、昭和天皇は怒っていたはずなのです。
でもそれが五・一五事件では判決には反映されなかった。
軽い罪で終わった五・一五事件の首謀者たち。
あくまで、私の個人的な考えですが、この五・一五事件でも、昭和天皇がもっと厳しく怒りを向けていたら、二・二六事件は決行されなかったかもしれない。
二・ニ六事件後、主要人事と基本政策について陸軍の承認を得なければ組閣できないなどの、陸軍による政治支配の強化が推進されます。
そしてまた、この事件の結果によって、軍司君主としての天皇の役割が大きくなっていくのです。
高まった天皇の権威を軍部は最大限に利用。
こうして国民たちは天皇のために自らの命を捧げることが美とされていきます。
太平洋戦争への道すじができてしまったのです。