今から419年前の今日「関ケ原の合戦」という戦いがありました。
私が小学生の頃は「関ケ原の合戦」といえば「豊臣VS徳川」のイメージで習いました。
でも違います。
天下分け目の戦いである「関ケ原の合戦」は石田三成を中心とする西軍と徳川家康を中心とする東軍との戦いです。
豊臣秀吉は1598年にすでに亡くなっており、遺児である豊臣秀頼は関ケ原の合戦には何の関わりもないとして、合戦後は一大名として、大阪城に君臨しています。
関ケ原の合戦では、石田三成を始め多くの西軍の武将が処刑されていますが、豊臣秀頼(その母淀殿も)はお咎めなしです。
だって秀頼は関ケ原の合戦で出陣していなかったのですから。
秀頼が西軍の総大将として出陣していたら、小早川秀秋が西軍を裏切ることはなかったかもしれない・・・私の勝手な想像です😓
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関ケ原の合戦に出陣せず、一大名となった秀頼(と淀殿)は何故大阪の陣にて自害に追い込まれたのでしょうか。
徳川家康は何故豊臣家の血縁を断ち切ることに執着したのでしょうか。
豊臣秀吉の力は「絶対」だったのですよ。
関ケ原の合戦で東軍についた加藤清正も福島正則も黒田長政も、元々は秀吉の家臣。幼き頃から秀吉に忠義を誓っていた武将でした。
たまたま石田三成と合わなかっただけで、関ケ原の合戦でも豊臣に矢を向けたわけではないという意識だったかもしれません。
家康は豊臣秀吉の亡霊に怯えていた?
だから秀頼を亡きものにする必要があったのです。これも私の勝手な想像です💦
豊臣秀吉は優れた政治家だったと思います。晩年の狂気に満ちた行動は別として。
私が秀吉のすごいと思うところは「兵農分離政策」
刀狩から始まるこの政策は家康にも引き継がれ、これが260年続く江戸時代に大きく影響していると思います。
それまで戦といえば、農民も参加していました。
なので田植えや刈り入れの多忙な時期に戦はなかったのです。
でも、その兼業やめようよ。
百姓は戦わなくていいから。
刀とか槍とかいらないでしょ。
大仏造るから刀を提出してくれる?
・・・というわけで、農民から刀を取り上げました。これが「刀狩」
でも実際にはすべてを取り上げるのは難しかったみたい。
だってさ、害獣駆除はどうすればいいの?熊とか猪とか出るんだよ?
こうして身分統制令が出来上がります。
百姓は武士になれない。
そして武士も百姓になれない(帰農)。だって、専属軍人が必要だからね。戦の時の戦力です。
豊臣秀吉にもう少し早く子供ができていれば。
私は豊臣秀頼はなかなか良い武将だと思うのですが、もう少し早くに生まれているべきでした。
豊臣秀頼が本当に豊臣秀吉の子供であったのかどうかという謎もありますが。
大河ドラマ「真田丸」で豊臣秀頼を演じていた中川大志さんは素敵でした。目力があった。今の「なつぞら」のアニメーター役より似合っていたと思います。なぜ「なつぞら」では目がトロンとしているのでしょうねぇ・・・。
徳川家が長く続いたのは、二代将軍徳川秀忠は別として、側室をしっかりと抱え、十分な世継ぎ候補に恵まれたからでしょう。
以上、私の勝手な語りにお付き合いくださりありがとうございました。
あくまでも私の独り言ですから、歴史を真面目に勉強されている学生さんは鵜呑みにしないでくださいね。