しかし信長の死後、後を継いだ豊臣秀吉はそうではなかった。。
ただ、秀吉はキリスト教を禁止したというよりは、制限したという方が正しいでしょう。
秀吉が出したのは禁教令ではなく、バテレン追放令です。
バテレンというのは、パードレ、宣教師のことです。
「宣教師は日本から出て行け」という、豊臣秀吉がバテレン追放令を出したのは天正15(1587)年6月19日。
436年前の今日です。
なぜ、秀吉はキリスト教に制限をかけたのでしょうか。
封建思想との関係とか、キリスト教を布教するにあたって神社仏閣を壊しまくったとか。
高校の教科書などでは、「大村純忠が長崎の土地を教会に寄進したことを秀吉が怒ったから」などと記載されてますね。
秀吉は大名たちのキリスト教信仰を許可制にし、長崎の地を没収したりしています。
キリスト教を棄てなかった播磨の大名高山右近も領地を没収されます。
しかし秀吉は宣教師を全員追い出したわけではありません。
そのまま日本に留まり、布教を再開した宣教師も大勢いました。
秀吉はキリスト教を制限しようとしましたが、それほど強くはなく、実際により厳しい禁教令を出したのは徳川家康であり、さらに拷問などで改宗させようとしたのは徳川秀忠です。
宣教師たちは「バテレン追放令」をだした秀吉を「悪魔👿」と呼びます。
しかしその後キリスト教を禁止した家康・秀忠親子のこともやっぱり「悪魔👿」と呼びます。
そして、そういったことを一切しなかった豊臣秀頼のことを宣教師たちは「プリンス(prince)✨」と呼びました。
秀頼生存説にイエズス会が絡んでいるのはそういった事情が関係しているのかもしれません。
3代将軍徳川家光はキリスト教を全面禁止、ポルトガルについても国外追放という、いわゆる鎖国への道を選びます。
家康を祀る東照宮というのはとても豪華な造りです。これは自分たちの先祖の権威を見せつけ、キリスト教のような存在が自分たちを脅かすのではないかという警戒心の現れではないでしょうか。
神格化するという権威で人々を支配する可能性があるということを、キリシタンが中心となった「島原の乱」で家光は学んだのかもしれません。
バテレン追放令の目的とはいったい何だったのか。
それはまだ解明されておらず、いろいろな学説があり、まだまだ研究が待たれるところだと思います。