朝ドラ『カムカムエヴリバディ』で、感じ悪い男だけど憎めない五十嵐役が素敵だった本郷奏多さん。
もともと好きな役者さんでしたが、大河ドラマ『麒麟がくる』で彼が演じたは
戦国時代の貴族のトップ近衞前久、今まで大河ドラマにもあまり出ていませんでした。
『軍師官兵衛』には出てた(らしい)。ごめんなさい、記憶にない…
近衞前久の「このえ」は近衛ではなく、「近衞」が本来の表記らしいです。
目次
貴族の状況
近衞家の屋敷
京都市内の同志社大学の敷地内に「近衞家」の屋敷はありました。
その屋敷は相当な規模で、広さはおよそ1万6000㎡。
サッカーグラウンド2つ分です。
立地は天皇が暮らす御所の近く。関白を務めていた近衞家ならではです。
関白とは天皇を補佐する重要な役。
近衞家は関白になることができた数少ない家のひとつでした。
ところが近年行われた発掘調査で以外な事実がわかります。
大量に見つかった器は庶民が使うような質素な物ばかりだったのです。
栄華を極めた貴族が没落していたことがわかります。
戦国時代、貴族は没落していた?
貴族の没落。
それは戦が原因でした。
戦いで世が乱れると、武士が力を増し、貴族は所領を次々と奪われていきます。
戦国時代になると存亡の危機ともいえる状況に陥っていきます。
近衞前久、関白となる
そんな中、近衞前久は19歳で関白に就任します。
公家の中でも最高位です。
天文23(1554)年。
近衞前久、活躍する
公家としては型破りな性格であった近衞前久は、平和な世を求めて奔走します。
上杉謙信と手を結び関東を平定しようとしたり。
織田信長と結託して毛利を倒そうとしたり。←ここんとこ『麒麟がくる』でちょっと描かれていました。
秀吉に懇願されて、秀吉を「関白」にするために彼を養子にしたり。
近衞前久は、貴族が得意とする「鷹狩り」や「和歌」をアピールして、「古今伝授」を武器にして、武士たちに取り入ります。織田信長だったり、島津だったり。
貴族が培ってきた「貴族の文化」が武士を動かすこともあるのです。
石山本願寺の一向一揆では、近衞前久が信長との和平交渉役を引き受けます。前久の交渉で10年に及んだ戦いが終わります。
まさに戦国交渉人です。
本能寺の変の黒幕?
天正10(1582)年、織田信長が倒れた本能寺の変では、明智光秀との共謀説を疑われました。
『信長公記』には、「(明智軍が)近衞殿御殿へ上がり 弓 鉄砲を撃ち入れ」とあります。
また、ある公家の日記には「7日(本能寺の変の5日後) 近衞殿 樽を進上 盃(近衞家、本能寺の変の直後に宴会してるってよ)」とあります。
これらの記述から、本能寺の変は近衞前久が黒幕だったのではないかというのです。
前久は、疑いが晴れるまで徳川家康の元に匿われます。本能寺の変の真相はどうだったのかはわからない?
戦国時代の終わり
天下統一した豊臣秀吉は朝鮮出兵をし、秀吉が亡くなると関ケ原の戦いが起こり…となかなか平和な世がきません。
島津氏の講和
徳川家康が勝利した後、九州の島津氏(関ケ原の合戦では西軍だった)なおも強大な兵力を有していました。
なんとか島津を屈服させたい。戦わずして島津を従わせたい。その家康の思いをまたも引き受けたのが戦国交渉人近衞前久でした。
前久は島津に手紙を次々と送り、所領安堵できるよう家康に働きかけ、交渉を重ねること1年。元々前久と信頼関係のあった島津氏は家康と講和し、戦は避けられました。
江戸幕府
その2年後。
家康は慶長8(1603)年、江戸幕府を開きます。前久は68歳でした。
ようやく戦いの世に終止符が打たれました。
その後260年にわたり引き継がれていくことになります。
近衞家に戻った関白の座
慶長10(1605)年、前久の息子近衞信尹が関白に就任。
豊臣秀吉、秀次が就任していた関白。その座が再び近衞家に戻ったのです。
公家諸法度に「摂家以外関白には就任できない」とあります。えぇ、その後貴族が代々継承していきます。
太平の世を夢みた近衞前久は、平和な世を見届けて、慶長17年5月8日、77歳で亡くなります。
西暦でいうと1612年6月7日。410年前の今日です。
来年の大河ドラマ『どうする家康』に近衞前久は出る?
75歳で亡くなった徳川家康の人生は波乱万丈、ドラマ盛りだくさんですから、近衞前久まで出番はないかもしれませんねぇ。