慶応3(1867)年10月14日に二条城で江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上しました。
翌15日に天皇が奏上を勅許しました。
これが
慶喜は将軍職辞職願を10月24日に提出します。
西暦ですと1867年11月19日。
156年前の今日です。
目次
関ヶ原合戦と大政奉還
1600年、関ヶ原の合戦で数々のドラマがありました。
それが260年後の明治維新にどのように影響したのでしょうか。
関ヶ原の合戦西軍に与する長州・毛利、薩摩・島津が関ヶ原で生き残り、結果260年後の倒幕による明治維新の中心となる巡り合わせになります。
毛利輝元
毛利輝元は嫌々ながらも、関ヶ原合戦の西軍総大将に祭り上げられたとの説はよく聞きます。
「どうする家康」では茶々にぶたれてましたね😲
最近の研究では、輝元は「反家康」であり、家康を討つ気満々だったとか。
しかし参謀と言うべき家臣吉川広家が東軍の黒田父子(孝高&長政)などと内通し、あげくの果てに西軍から東軍に寝返り。
東軍勝利の後、広家による毛利家の所領安堵を懇願したものの、徳川と交渉の上大坂退去、減封。
総大将の立場にあったものの厳罰は逃れました。
そして。
毛利は260年耐え、倒幕からの明治維新に繋がります。
毛利氏が治める長州藩からは、吉田松陰、高杉晋作らの倒幕派に加え、大村益次郎、桂小五郎、伊藤博文などの人材を輩出します。
島津義久義弘兄弟
関ヶ原合戦で、薩摩の島津氏は義久・義弘兄弟が仲違いしており、軍勢が集まらない。
西軍不利の中、島津隊は退路を遮断され、敵中に孤立していました。
義弘は切腹を覚悟したとも言われていますが、結局敵の大軍の中を突破しようとします。
西軍敗戦後は、徳川との和平交渉にあたり、近衛前久などの尽力もあり、結局家康は島津本領安堵を決めます。
その260年後。
薩摩藩からは尊皇倒幕の志士を多数輩出します。
徳川将軍家と深い縁戚関係にありながら29代島津茂久は、外様で反徳川の毛利家と薩長同盟を結び、倒幕の中心となるわけです。
井伊直政
家康の家臣井伊直政は島津氏との戦いで、足を狙撃され、落馬してしまいます。
大怪我を負ったにもかかわらず、合戦後は戦後処理に奔走します。
自分を狙撃した島津氏と徳川氏の和平交渉をし、また西軍の真田親子の助命にも尽力します。
こういった功により、石田三成の旧領である近江国佐和山(滋賀県彦根市)に転封となります。
彦根藩は明治時代になるまで井伊氏の藩として栄えることになります。
その明治を見る前に、第16代藩主井伊直弼は桜田門外の変で、水戸藩士&薩摩藩士によって、暗殺されてしまうのだけど。
薩摩島津家の存続のために奔走した井伊直政だったのに、その260年後薩摩藩士によって命を落とした子孫。なんとも皮肉です。
「どうする家康」の関ヶ原合戦
どんなドラマでもそうですが、賛否両論はあります。
NHK大河ドラマにおいて、関ヶ原の合戦は幾度となく描かれてきました。
なので、思い入れの強い方も多いのでしょう。
「どうする家康」の関ヶ原合戦が短すぎると感じた意見も多いようですが、私はむしろ長すぎるくらいだと思いました。
2016年「真田丸」では、関ヶ原の合戦は一瞬だったもんね(笑)
でも2話にわたって、じっくりと合戦の流れを見ることができ、その260年後を感じる余裕さえできました。
毛利と島津(島津というか、島津隊とぶつかった井伊直政というか)に焦点あてた描き方だからこそ。
私は「どうする家康」の関ヶ原、楽しめました。
家康が三成に荒々しく言った「なぜこのような無益な戦を引き起こした!死人は八千を超える。未曾有の悲惨な戦ぞ!」は嫌いな台詞だった。家康アゲアゲって感じで。
でもその後三成の「うぬぼれるな!この悲惨な戦を引き起こしたのは私であり、あなただ。」の台詞で帳消し。
今日の「どうする家康」はいよいよ江戸幕府開幕。
260年続く徳川の世は、関ヶ原合戦負け組の毛利、島津によって終止符が打たれるわけです。