動きそうで動かない『麒麟がくる』
「もう10年近くもこの越前に…そろそろ船出の潮時なのではありませぬか?」
そうよ、十兵衛光秀!
そろそろ織田信長の元へ行ってください。
この後「
でないと年末の本能寺の変に間に合いませんよ!
目次
『麒麟がくる』第26回「三淵の奸計(かんけい)」あらすじ
朝廷内のドロドロに関白近衛前久は困り顔(顔芸すごいw まるで半沢直樹)。光秀も上洛できるのは織田信長と朝倉義景のみ、それで京の三好と戦えるのかと思案どころ。そんな中朝倉義景の愛息子阿君丸が何者かにかに暗殺された。義景は鬱々とした日々を送り、上洛どころではなくなった。信長は単独での上洛を決意する。
伊呂波太夫
伊呂波太夫に「そろそろ船出を」と促されても、光秀は煮え切りません。
光秀「あいにく、船出の船がみつかりませぬ。」
伊呂波太夫にはわかっているのです。
「その船の名はすでにおわかりのはず。織田信長。おふたりで上洛されればいいのですよ。上杉様も朝倉様も不要ではありませぬか?」
伊呂波太夫は架空の人物。
強いていえば、出雲阿国を思わせますが、おそらくモデルではないでしょう。
大河ドラマに架空の人物が登場するのを嫌う人もいますが、伊呂波太夫は物語において欠かせない人物であると私は思うのです。
史実といえど、本当の史実はわかるわけがない。
想像で補っていくのであれば、魅力ある架空の人物を登場させたいじゃないですか。
信長がひとりで上洛
「なに!?わしひとりで義昭様を京へお連れするのか!?」と驚く信長。
その信長を説得するのは光秀。
光秀に筋立てて説明されると、私まで「うん、うん。今が京に出る好機かも。」と思ってしまった。
信長も決意します。
「京へ出て大きな世を作るのか。よし、そなたの申す通りやってみよう。足利義昭様をこの美濃へお連れせよ。」
誰ですか?染谷信長を当初浦島太郎なんて言ってたのは!
私です…
しっかり織田信長じゃないですか!
丸顔だろうと、童顔だろうと、しっかり織田信長じゃないですか!
染谷将太さんのキャスティングに感動すらしてしまいます。
妻煕子
煕子が意外に目立たないなと、ずっと思っていたのですが、今回はよかったですね。
越前を離れるという光秀は妻煕子に「怖いか?」と尋ねます。
煕子は答えます。
「いつかこのような日がくると思うておりました。きっと成就いたします。何も恐いことはありません。嬉しいばかりでございます。」
明智光秀は生涯側室をもちません。
仲の良かった夫婦であろうと想像できます。
コロナ禍の影響か、伊呂波太夫と光秀、信長と光秀、煕子と光秀・・・とふたりだけの場面が続きましたが、どれもよかった。どの場面にもMVPをあげたい。
朝倉義景
ユースケ・サンタマリアさんが演じる朝倉義景はいかにも「食えない奴」
光秀はそんな朝倉に仕えているようないないような、なんとも中途半端な描き方ではあります。
唯一の男の子であった阿君丸が亡くなる
溺愛していた阿君丸が亡くなり、義景は阿君丸が可愛がっていたネズミを眺めながら、鬱々とした日々を過ごしています。
上洛する気力はすっかり失せた様子。
阿君丸が可愛がっていたネズミ、ハツカネズミかな?と思ったら、普通のネズミだった。
野山を駆け回っていそうなネズミ。
ペストを運んでいそうなネズミ。
上洛をしなかった朝倉義景
朝倉義景は、上洛する機会を失いました。
それが信長との関係に大きく影響します。
最終的に朝倉義景は信長に追撃され、朝倉景鏡宅へ逃げ込みますが、景鏡の裏切りにあい自害へと追い込まれます。
『朝倉始末記』によると、この朝倉景鏡はその後信長に仕えるも、まもなく越前一向一揆によって戦死します。裏切者のせいか『朝倉始末記』ではかなり陰湿な人物として描かれている(;'∀')
越前一乗谷
朝倉が越前国守となり、一乗谷を築いたのは、戦国時代の始まりである応仁の乱からです。
元々は守護の家来であった朝倉孝景が下克上で成り上がったのです。
それから100年。
孝景から数えて五代目の義景の頃には一乗谷の城下町は美しく小京都のような賑わいでした。
四方に掘りをめぐらした巨大な朝倉の館が発掘によって確認されています。
織田信長によって焼き尽くされ、その後福井県の一乗谷は400年もの間眠っているのです。
いくつもの庭園は今でもその姿が残っています。
朝倉義景が令和の時代にいたら
信長を追い詰めた武将でありながらも、決して天下を取ろうと思ったわけではなく、地方の大名として悪くない政治家だった朝倉義景。
京都に匹敵するくらいの文化に力を入れ、自分が治めている地だけを見ていた彼は、戦国時代にはあわなかった。
たとえば、江戸時代の加賀藩。加賀友禅や九谷焼などの文化を大切にし、戦力には力を入れず(本当はそれなりの武力をもっていた?)、加賀藩の存続を実現させた。
朝倉義景もそういった政治をやっていたのですが、加賀藩と違ったのは加賀藩が徳川のご機嫌をとったのに対し、義景は信長のご機嫌をとらなかった。
もしも令和の時代に朝倉義景に地方都市の市長をやらせたら、県知事をやらせたら、良い政治を行なったのではないかと作家真山仁氏はBSプレミアム「英雄たちの選択」で言っています。
永禄11(1568)年7月。
足利義昭は越前を発ちます。
そして明智光秀もいよいよ船出でしょうか。
さぁ、今日はこれから長谷川博己さん主演の「シン・ゴジラ」を観よう。