多くの歴史好きブロガーさんが記事にしていらっしゃいますが、朝日新聞の1面に「光秀 本能寺に行かなかった?」という記事が掲載されました。
目次
朝日新聞の記事
1月4日付の朝日新聞によると。
織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変(1582年)をめぐり、光秀は本能寺(京都市中央区)の現場には行かず、武かに実行させていたとする学説が出てきた。本能寺の変に参加した家臣から聞いた情報として、事件から87年後にまとめられた
古文書 に記録されていた。令和3年1月4日付朝日新聞より引用
1面の記事に載せるところがすごいですね。
しかもこの時期ですか(笑)
NHKに喧嘩うってる?
以前大河ドラマ「おんな城主 直虎」の時も、放送初回直前に「直虎は実は男だった」ってニュースがあったっけ。
光秀が本能寺に行かなかった説
ドラマにも登場している斎藤利三。
その利三の三男で、自らも16歳(数え年)で事件に関わった利宗が、おいで加賀藩士の井上清左衛門に語った内容として「利三と、光秀重臣の明智秀満(ドラマでは左馬之助)が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、光秀は寺から約8キロ南の鳥羽(京都市南部)に控えていた」と書かれています。
つまり、光秀は本能寺に行かなかった。
加賀藩が保管していた古文書『乙夜之書物』
私が注目したのは、この記録が『
乙夜之書物
本能寺の変の87年後にまとめられた『
古文書には、1628年に死去した加賀藩士が、本能寺の変から逃げ延びた女房から聞いた話として、信長最期のシーンも描かれています。
信長は畳をあげて四方に立て、4,5人の侍女に「いずれも出よ、出よ」と言って退室を命じたと言います。
逃げた女房から話を聞いたとするのは『信長公記』と同じ、畳を立てかけた話は、17世紀後半ごろに成立した細川家の史料『忠興交譜』(細川忠興は光秀の娘婿)に出てきます。同じような話が同時期の複数の文献に見える点は興味深いと、金子拓氏(東京大史料編纂所准教授)が話しておられると記事には記されています。
前田家が治めた加賀藩
加賀藩は、古文書をとても大切に扱っていると思います。
以前このブログで東寺百合文書について記事にさせていただきました。
京都の東寺に伝来した文書郡24000点(古代・中世の政治・経済・宗教史研究の必須史料)を加賀前田藩の前田綱紀が、1685年に整理、筆写したのです。
江戸時代に入るまでは、東寺文書は革袋や様々な箱に入れられて保管されていた。貞享2年(1685年)に加賀藩藩主前田綱紀が東寺文書の書写を行った際に謝礼として、文書の目録を作成し、なおかつ平仮名・片仮名それぞれのいろは順と「京」の字が付けられた桐箱100合を製作・収納して東寺に返還したと伝えられている。Wikipediaより引用
光秀が本能寺に行ったのか、行っていないのか。
そしてこの『
それが実現されたとしたら、加賀藩、またお手柄だね。
私は新聞をとっておらずネットニュースで日々暮らしています。
なので、この朝日新聞の記事は友人が教えてくれました。
それで妹に頼んで、職場から新聞を持ってきてもらいました(笑)
ありがとうございます。