暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

実家の母を介護するために北海道から引っ越してきました。その介護も終わり、片づけと大学通信教育部の勉強と猫と。そんな雑記ブログです。当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

『麒麟がくる』最終回~いろいろな人の声が伏線になった

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終わっちゃいましたね、『麒麟がくる

最終回は、18.4%という高視聴率でした。

私がいつも拝読させていただいている皆様のブログでもたくさん記事になっていた『麒麟がくる』の最終回。

これだけ、皆さんが楽しみにしていた番組の最終回に、高視聴率も納得です。

稚拙ではございますが、最後の『麒麟がくる』からの考察と感想です。

 

目次

 

麒麟がくる』第44回「本能寺の変」あらすじ

足利義昭を殺せと信長からの命を受けた光秀。長宗我部との関係といい、光秀は途方に暮れ、織田信長を討つという結論に達する。家臣もそれに賛同し、100名という少ない手勢で滞在している本能寺の信長を奇襲するのであった。信長は「是非もなし」と光秀の謀反を受け入れ、火の中に消える。その後秀吉に敗れた明智光秀。3年後、どこかに生存しているかもしれない光秀の姿を駒は追いかけるのだった。

 

盟友、細川藤孝

この番組に1年間通して出場し、光秀の友として、最後は親戚にもなり、友好関係を築いてきた細川藤孝

藤孝は以前、兄である三淵藤英が投降した時に言いました。

「私は気がついただけです。政を行うには、時の流れを見ることが肝要だと。この世には大きな流れがある。それを見誤れば、政は澱み滞り、腐る。」

これが藤孝の本音なのでしょう。

光秀に加勢することをしなかった。それは友情を裏切ったとか、ずる賢いとかではなく、細川家が残るために自分は時の流れを見る必要があり、その流れの中で光秀につくことは得策ではなかったのです。

本能寺の変後、細川藤孝豊臣秀吉に仕え、そして徳川家康に仕えます。

外交を読み取る力があった細川藤孝

私は、昔から息子の細川忠興より藤孝が好きでした。

主人公ではないけれども、細川藤孝をこれほど大きく扱った番組は過去になかったのではないでしょうか。

 

いろいろな人の言葉が光秀を推す

最終回ともなると、これまでの思いがぐるぐると回ります。

今回の最終回でもいろいろな人が光秀への思いを語りました。

本能寺の変、起こせよ。」と。

 

伊呂波太夫

伊呂波太夫は近衞前久に言います。「背けばいいのですよ。明智様に背いてほしい。(光秀が)信長様に勝ってほしい。」

オリキャラではありますが、私は伊呂波太夫の存在が嫌いではありませんでした。

 

織田信長

「ふたりで茶でも飲んで暮らさないか。」と光秀に言う信長。似たようなことを帰蝶も光秀に言ってましたね。「茶でも飲もう。」やっぱり伊右衛門だよね。

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信長も帰蝶もお茶好きだね

「子供の頃のように長く眠ってみたい。長く。」

信長のこの言葉はどうとらえればよいのか。

それを光秀に言っちゃうか。

眠いなら 眠らせてみよう ホトトギス

 

「光秀、信長と一戦を交えるかもしれないってよ。」

朝廷にでさえ、この噂が届いているというのに、そんな事態の中、少ない手勢で本能寺に泊まってる信長って、どんだけ油断してんだよ。

 

帰蝶

「毒を盛る、信長様に。今の信長様を作ったのは父上であり、そなた(光秀)なのじゃ。よろず、作った者がその始末を成すほかあるまい。違うか?」

帰蝶恐ろしい子

 

煕子

「わたしは麒麟を呼ぶものが十兵衛様、あなたであったなら。ずっとそう思っておりました。」

 

秀吉

「殺ればよいのじゃ。明智様が上様を。殺れば…面白い。」

佐々木蔵之介さん!なんてぞくぞくさせてくれるの!

そして、口調を変えた次の台詞がまたいいのです(笑)

秀吉は黒田官兵衛に言います。「これ、毛利など相手してる場合ではないぞ。」

黒田官兵衛役の濱田岳さん。出演をかなり宣伝してたわりには、「はっ。」「はっ。」の台詞2個だけでした(笑)

足を引きずる後ろ姿、2014年の大河ドラマを思い出しますね。

有名な秀吉の中国大返しは、『麒麟がくる』ではキーマンは細川藤孝からの文でした。

 

斎藤道三

最終回に斎藤道三の回顧がなかったのは残念でした。

道三の光秀に語った言葉。「わしは老いぼれた。もはやこれまでと…家督を(高政に)譲ろうと思ったのじゃ。しかし譲る相手を間違えた。間違いは正さなくてはならぬ。」

私の中にずっとこの言葉がありました。

たぶん光秀もそうであったと思いたい。

信長に託した麒麟がくる世。しかし託す相手を間違えた。間違いは正さなくてはならぬ。だから本能寺の変

 

今回の中盤でのハイライト

伊呂波太夫同様、オリキャラとして賛否両論あった菊丸の存在。

私は菊丸の存在も嫌じゃなかった。むしろ好きだった。

「もし、わしがこの戦に敗れても、後を頼みたいと、(家康に)そうもお伝えしてくれ。」

光秀の「新しき世になった折、また会おうぞ!」の言葉に鳥肌たちましたよ。

 

最終回のハイライトとMVP

本能寺の変、その夜空に月はなかった

天正10(1582)年6月1日の夜。全く月の出ない夜です。

亀岡から京都まではさほど繁華な場所はないので、闇にまぎれての行軍でした。

事前に知られていれば、信長は逃げたかもしれない。

奇襲を悟られずに数千の軍が移動するには、月の出ない「6月1日の夜」は最適だったのです。

本能寺襲撃の夜、明智軍は暗闇を移動して隠密行動ができた。これは光秀側の事前の入念な計画からそうなったわけではなく、たまたま信長が闇夜に本能寺に泊まることになったためそれを利用しただけのことだったのでしょう。

 

MVP

「十兵衛か…。」と言った本能寺の織田信長

「十兵衛。そなたが。そうか。十兵衛か!」長い間があって「であれば、是非もなし。」

この台詞の時の染谷将太さんの表情が、今回の、いえ、この物語をとおしてのMVP。

ハセヒロさん、ごめんなさい。長谷川博己さんの明智光秀大好きでしたが、やっぱり本能寺の変は光秀が主役ではなく、織田信長が主役でした。(もちろん、私個人の感想です)

 

明智光秀の最期は

ドラマでは、山崎の合戦はナレで終わって、光秀のその後は謎のままでした。

明智光秀がその後天海という僧になって、家康に仕えたのかどうかはわかりませんでした。

それでいいと思います。

天海は、生年がはっきりせず、亡くなったのは寛永20(1643)年10月2日。100歳以上生きた長生きの僧だったと言われています。

それが明智光秀だったのか、そうではなかったのか、視聴者がそれぞれ想像すればよいのです。

 

 

1年とちょっと、私の独り言のような『麒麟がくる』の分析&考察&感想&戯言。

お付き合いしてくださった皆様、ありがとうございます。

何度も言及してくださった方、私のブログで勉強になったとおっしゃってくださった方、一緒に大河ドラマを視聴してきた連帯感でいっぱいです。

本当にありがとうございました。

楽しかったです。

 

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