日米首脳会談で、両首脳は台頭する中国への対処方針を確認する見通しです。
台湾周辺で、中国が軍の活動を活発化させていることにアメリカが強い警戒感を示す中、会談でどのような言及があるかが焦点の1つです。
明治27(1894)年7月、豊島沖の海戦によって日清戦争が始められます。
8月には正式に対清国宣戦が布告されます。
清国はご存じ、現在の中国です。
この戦争が終結したのは、明治28(1895)年4月17日、126年前の今日です。
目次 ~日清戦争~
甲午農民戦争、東学の乱
1894(明治27)年5月、朝鮮で民族主義的な東学を中心に、減税と排日を要求する大規模な農民の反乱がおこります。
これが
朝鮮政府は、鎮圧のために清国に派兵を要請し、同年6月、清国は軍隊を送ります。
日本もこれに対抗してただちに出兵します。
両国の出兵もあり、農民の反抗は収まります。
開戦
日本は日清両国で朝鮮の内政改革にあたることを提案します。
しかし、清国政府はこれを拒否したので、交渉は決裂します。
ちょうどそのころ日英通商航海条約が締結され、イギリスが日本に好意的な態度を示したので、第2次伊藤内閣、陸奥宗光外相率いる日本政府は開戦を決意するのです。
いってみれば、日本と清国が朝鮮半島と台湾の利権を争ったということでしょうか。
日本圧勝
日本国内では、それまでしばしば対立・抗争を続けていた政府と政党が一致協力の態勢をとり、議会では巨額の軍事予算も満場一致で可決されるなど、清国との戦争を遂行するための挙国一致の動きが進められます。
日本側が明治維新以来、強い対外危機意識のもとで国内の改革を進めて立憲政治を実現し、国をあげて十分な準備を整え、よく訓練され近代的に組織化された軍隊をもっていたのに対し、清国側は国内の改革に立ち遅れ、西太后派と光緒帝派間の政治的対立も激しく、専制政治のもとで国力を十分に発揮できませんでした。
平壌および旅順の占領、遼東半島を制圧し、黄海海戦、威海衛の攻撃で、清国が誇っていた唯一の近代的海軍、北洋艦隊を壊滅させて圧勝します。
アジアの覇者清国に、明治維新で成功した新興国である日本が勝利したのです。
下関条約締結
講和会議は
明治28(1895)年4月17日、「下関条約」が結ばれました。
清国は日本に対して、
①朝鮮の独立の承認
③賠償金2億両(日本円で3億1000万円)の支払い
④日清通商航海条約の締結と沙市・重慶・蘇州・杭州の開市・開港、租界での治外法権などの承認を約束します。
ココ大事ですから、受験生の皆さん覚えてくださいね。小学生の方も「下関条約」という言葉は覚えましょう。
会議場の「春帆楼」は有名なフグ料理屋さん。現在も保存されています。
こうして、日本は朝鮮から清国の勢力を一掃して、大陸進出の第1歩を踏み出したのです。
参考文献
それまで「眠れる獅子」といわれ、恐れられていた清国が、東アジアの新興国日本に敗れ、弱体ぶりを暴露したことは、国際政局に大きな波紋を呼びました。
下関条約により植民地となった台湾を日本は統治します。
軍人の総督を補佐したのが民政局長後藤新平です。