暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

実家の母を介護するために北海道から引っ越してきました。その介護も終わり、片づけと大学通信教育部の勉強と猫と。そんな雑記ブログです。当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

世界三大記念艦「みかさ」と日露戦争

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長女夫婦が横須賀で見てきたという「三笠」。

 

 

「三笠」は、英国の「ヴィクトリー号」、米国の「コンスティテューション号」と共に、三大記念艦として知られています。

 

日露戦争は、ロシアの極東進出によって存亡の危機に立たされた我が国が心身を尽くして戦った防衛戦争です。

東郷平八郎司令長官が率いる連合艦隊対馬沖でバルチック艦隊を迎え撃ち圧倒的な勝利を収めたこの日本海海戦により、戦争は終局に向かい、ポーツマス条約が締結され両国の講和が成立しました。

「三笠」は当時最新鋭の戦艦であり、日本海海戦において東郷司令長官が乗艦指揮する旗艦として、常に連合艦隊の先頭に立ち敵艦の集中砲火を浴びながらも戦い抜き、日本を歴史的な大勝利に導きました。

三笠保存会のチラシから引用しましたけど…ずいぶんと強気な説明?

 

1904年2月、日本からロシアへ戦争を仕掛けます。

日本国内では、いろいろな議論がありました。

キリスト教人道主義の立場から戦争に反対したのは内村艦三。社会主義の立場から非戦論・反戦論を唱えたのは幸徳秋水堺利彦

しかし世論は圧倒的に開戦論です。

東京帝国大学の戸水寛人たちは「七博士意見」という対露強硬論を提出、近衛篤麿(近衛文麿のお父さん)たちの「対露同志会」など、民間あるいは有力者たちにも主戦論が高まっていきます。

徳富蘇峰の「国民新聞」も主戦論の代表です。

 

日露戦争の大きな戦闘を3つ。

1904年の旅順攻防戦(旅順攻囲戦)では多大な被害、損害を出しましたがようやく制圧。

陸での大戦争が1905年2月からの奉天海戦。

そして3つ目が日本海海戦

1905年5月27日に「三笠」が連合艦隊の先頭に立ち、ロシアのパルチック艦隊に圧勝します。

118年前の今日です。

 

 

日露戦争は日本の勝利でした。

しかし、この段階で、日本はもう借金漬け。

日露戦争における日本の戦費は18億円に達し(当時の国家予算の歳出額の数年分に相当)、約110万人の兵力を動員し、死傷者数20万人を超すという大きな損害を出しました。

賠償金が得られないなど、ポーツマス条約の内容は期待以下でした。

増税に耐えて戦争を支えてきた多くの国民は、激しい不満を抱き、これが日比谷焼き討ち事件に繋がったり、その後十数年の間に民衆暴動がしばしばおこり、社会を動揺させます。

 

 

無人島の猿島が見えます。

猿島東京湾最大の自然島です。

 

三笠は全長122m、幅23m。

 

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私は2年前、大学のオンライン授業で日露戦争について学びました。

あまり得意な分野ではありませんでしたが、授業を受けるといろいろ興味が湧いてきました。

しかし、授業終了後(単位は無事に取得。成績は「A」でした。)時間が経過するとともに、その知識はきれいさっぱり脳内から消滅しました。

 

若い頃と違って、知識がその場限りで、自分の脳に蓄積されないのを実感しています。