孫文はたびたび日本に逃亡しました。
孫文を助けた日本人は数知れず。
宮崎滔天もそう。
NHK大河ドラマ『青天を衝け』最終回では、孫文が登場しました。
そして梅屋庄吉。
日活の創業者ですが、彼は孫文を全面的に支援しました。
目次
梅屋庄吉という人
明治元年11月26日に誕生しました。明治の幕開けとともに彼は生を受けたのです。西暦だと1869年1月8日。153年前の今日です。
長崎は古くから中国ヨーロッパとの交易が盛んでした。新しい文化の先端地だったのです。
庄吉は貿易商精米所も営んでいた梅屋商店の梅屋家に養子入りし、14歳で上海に渡ります。
梅屋庄吉と孫文の出会い
1895年、梅屋庄吉は孫文と香港の地で共通の知人である英国人医師ジェームス・カントリー博士を通じて出会ったといいます。
ふたりは日中の親善、人類の平等について意見が一致します。
このとき、梅宮庄吉は27歳、孫文は29歳でした。
若き日に誓い合った友情は、生涯続くことになります。
辛亥革命への支援
平等な社会を作ろうとする孫文の革命にかける情熱を知り「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す」という盟約を結んだ梅屋庄吉。
庄吉は海外生活を経て日本に戻った後には映画興行で莫大な財をなし、若き日の誓いを守って生涯にわたり莫大な支援を行いました。
彼は一生をかけて物心両面から孫文を支え続けたのです。
こうして庄吉は孫文による1911年の
孫文と日本
日本に期待を寄せていた孫文。
しかし日本政府は孫文と敵対していた北方の軍閥政権を援助し、やがて大陸への進出を進めていくのです。
ヨーロッパの列強のようにアジアや中国を侵略するのではなく、アジアの王道を守ってアジア各国の権益を守るよう訴えました。
抑圧も搾取もない平和な世界を作ろうという孫文の夢は日中の友好と親善から成り立つものだったのです。
神戸で自分の気持ちを訴えた後、数か月後に孫文は亡くなりました。
1925年3月12日。享年59歳。
葬儀には梅屋夫妻も参列、人目もはばからず号泣したそうです。
孫文亡き後の梅屋庄吉
梅屋庄吉は孫文亡き後、孫文の偉大さを後世に伝えるために孫文像を中国のあちこちに贈呈します。
それらの銅像は中国で歓迎され、今も現存しています。
庄吉は孫文と出会ってから亡くなる直前まで、築いた財産のほとんどすべてを孫文の革命のために費やし、人生の大半を東洋平和のために奔走しました。
援助した金額の詳細は庄吉本人も把握していないそうです。1兆円とも言われています。
庄吉は1934年に亡くなる間際、遺言として「(孫文を支援したことについて)一切口外してはならぬ」と言い残したそうです。
口外してはならぬ…その結果、日活の創始者としては有名な梅屋庄吉ですが、革命を援助したことについては長く知られることはありませんでした。
2008年、胡錦涛前国家主席と福田元首相が会談したのを機に梅屋庄吉と孫文の関係が浮き彫りになったのです。
庄吉の活躍については中国側の方が詳しかったそうです。
宝塚歌劇団や東宝の創始者として有名な小林一三は知っていました。映画以外に鉄道や百貨店、プロ野球の礎も築き、庶民に夢を与えたのですから。本当はNHK朝ドラ『わろてんか』で高橋一生さんが演じたから知ったのです(笑) 90代の母はその名前をよく知っていましたね。
しかし、日活創始者でありながら孫文を支援したという梅屋庄吉の生涯を知る人は少なく、私も東洋史の授業で初めて知ったのであります。