暮らしと勉強、猫も介護も~Bettyのブログ

実家の母を介護するために北海道から引っ越してきました。片づけと大学通信教育部の勉強と猫と介護と。雑記ブログです。

無骨者、豪快勇猛な和田義盛

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大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、なんか憎めないキャラの和田義盛

鎌倉殿の13人の1人である和田義盛は、侍所の初代別当(長官)です。

代々鎌倉殿に近侍した重臣です。

私は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のネタバレ存じ上げませんが、このブログには史実としてのネタバレがございます。

ご注意ください。

和田塚

 

目次

 

鎌倉殿、13人の重臣

治承4(1180)年、源頼朝は平家打倒の兵を挙げます。

そのはじまりは、僅かな兵からなる「反乱軍」でしたが、勢力は瞬く間に膨れ上がり、新たな政権「鎌倉幕府」を創り上げていきます。

頼朝のもとに集まった人々は、自らの主の意を込めて、頼朝を「鎌倉殿」と呼びます。

 

頼朝の死後、息子頼家が鎌倉殿を継承しますが、その地位は決して安定したものではありませんでした。

この鎌倉殿を支える存在として選ばれたのが、北条義時をはじめとする13人の重臣たちでした。

彼らは9人の東国武士と4人の文筆吏僚りりょうで構成されていました。

和田義盛は9人の東国武士の1人です。

 

■京下の輩■
公文所(政所)別当大江広元問注所執事の三好康信、外務担当中原能親、財務担当二階堂行政は文官メンバー。

 

武士の多くは戦うことが本務で、まだまだ政務を負担することはできなかったため、京都からスカウトされてきた文筆能力に優れた人たち。

 

和田義盛巴御前

豪快さと勇猛さがウリの和田義盛は三浦義澄の甥です。

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妻は度会康高わたらいのやすたか豊受大神宮禰宜)の娘。

しかし、4月24日放送の『鎌倉殿の13人』第16回で「俺も新しい嫁が欲しい」などとふざけたことを言っていました。

「すでにいるではないですか。」と畠山さんに突っ込まれていました。

 

そんな和田義盛は、強く美しい巴御前を「気に入った!」と満面の笑みを浮かべるのです。

「自分の家人(側室?)になってくれよ~~~❤悪いようにはしないからさぁ~~~🥰」と迫っていましたね。

 

史実ではどうなのでしょうか。

和田義盛巴御前を側室にしたのでしょうか。

そもそも巴御前は実在したかどうかも疑わしいので。

吾妻鏡』には出てこないし。

源平盛衰記げんぺいせいすいき』では、巴御前和田義盛と結婚して朝比奈義秀を産んだことになってますが、生年からして史実とは思えません。(朝比奈義秀は1176年生まれです。木曾義仲が亡くなる8年も前なのです。)

 

朝日奈義秀は「朝日奈の切通し」を一夜で築いたという伝説をもつ武将です。

 

和田義盛の乱

1213年。

北条義時は、父が大江広元から受け継いでいた政所の長官(別当)の地位を継ぎ、さらに侍所別当担当和田義盛とその一族を滅ぼします。

義盛は愛息義直が討ち死にすると声をあげて号泣したそうです。

そのシーンを想像しただけで私も泣きそう(´;ω;`)ウッ…

そこを襲われ討ち取られたのです。義盛享年67歳。5月3日のことでした。809年前の今日です。

 

和田義盛の墓

鎌倉時代、どんだけ東国武士を滅ぼしていくのでしょうか😭

 

■受験生は覚えてね■
(数字の並び方から)「じゅうに(12)、じゅうさん(13)、和田の乱」1213年、和田義盛の乱

 

 

和田塚

鎌倉では八幡宮三の鳥居近くの小町通側、現在の鎌倉彫椿堂の辺りに邸宅がありました。

義盛が戦死した由比ケ浜には、現在でも「和田塚」という地名が残っています。

 

鎌倉時代の反乱

鎌倉幕府の有力御家人の反乱というのは、だれか1人が北条氏と喧嘩すると、一族全員が参加しちゃう。

トップ(惣領)が戦うと決めた瞬間に、その一門は否応なしに戦います。

だから、鎌倉幕府御家人たちの反乱というのは有力御家人の場合、大規模になっちゃうんですよね。

血縁的な関係が強いのでしょうか。

 

上総広常、源義仲木曾義仲)、そして源義高(冠者)と3週続けて悲しい最期を見せつけられましたが、『鎌倉殿の13人』はまだまだこれから。

たくさんの御家人たちの反乱における最期を見ることになります。

 

 

 

鎌倉幕府の有力御家人は、ほとんどが桓武平氏です。

和田義盛もそう。

そして三浦氏も北条氏も、みんな平氏桓武平氏です。

源氏の幕府なのに、案外、源氏は少ないんですね。

 

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