大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、なんか憎めないキャラの和田義盛。
鎌倉殿の13人の1人である和田義盛は、侍所の初代別当(長官)です。
代々鎌倉殿に近侍した重臣です。
私は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のネタバレ存じ上げませんが、このブログには史実としてのネタバレがございます。
ご注意ください。
目次
鎌倉殿、13人の重臣
治承4(1180)年、源頼朝は平家打倒の兵を挙げます。
そのはじまりは、僅かな兵からなる「反乱軍」でしたが、勢力は瞬く間に膨れ上がり、新たな政権「鎌倉幕府」を創り上げていきます。
頼朝のもとに集まった人々は、自らの主の意を込めて、頼朝を「鎌倉殿」と呼びます。
頼朝の死後、息子頼家が鎌倉殿を継承しますが、その地位は決して安定したものではありませんでした。
この鎌倉殿を支える存在として選ばれたのが、北条義時をはじめとする13人の重臣たちでした。
彼らは9人の東国武士と4人の文筆
和田義盛は9人の東国武士の1人です。
武士の多くは戦うことが本務で、まだまだ政務を負担することはできなかったため、京都からスカウトされてきた文筆能力に優れた人たち。
和田義盛と巴御前
豪快さと勇猛さがウリの和田義盛は三浦義澄の甥です。
しかし、4月24日放送の『鎌倉殿の13人』第16回で「俺も新しい嫁が欲しい」などとふざけたことを言っていました。
「すでにいるではないですか。」と畠山さんに突っ込まれていました。
そんな和田義盛は、強く美しい巴御前を「気に入った!」と満面の笑みを浮かべるのです。
「自分の家人(側室?)になってくれよ~~~❤悪いようにはしないからさぁ~~~🥰」と迫っていましたね。
史実ではどうなのでしょうか。
そもそも巴御前は実在したかどうかも疑わしいので。
『吾妻鏡』には出てこないし。
『
朝日奈義秀は「朝日奈の切通し」を一夜で築いたという伝説をもつ武将です。
和田義盛の乱
1213年。
北条義時は、父が大江広元から受け継いでいた政所の長官(別当)の地位を継ぎ、さらに侍所別当担当和田義盛とその一族を滅ぼします。
義盛は愛息義直が討ち死にすると声をあげて号泣したそうです。
そのシーンを想像しただけで私も泣きそう(´;ω;`)ウッ…
そこを襲われ討ち取られたのです。義盛享年67歳。5月3日のことでした。809年前の今日です。
鎌倉時代、どんだけ東国武士を滅ぼしていくのでしょうか😭
和田塚
鎌倉では八幡宮三の鳥居近くの小町通側、現在の鎌倉彫椿堂の辺りに邸宅がありました。
義盛が戦死した由比ケ浜には、現在でも「和田塚」という地名が残っています。
鎌倉時代の反乱
鎌倉幕府の有力御家人の反乱というのは、だれか1人が北条氏と喧嘩すると、一族全員が参加しちゃう。
トップ(惣領)が戦うと決めた瞬間に、その一門は否応なしに戦います。
だから、鎌倉幕府の御家人たちの反乱というのは有力御家人の場合、大規模になっちゃうんですよね。
血縁的な関係が強いのでしょうか。
上総広常、源義仲(木曾義仲)、そして源義高(冠者)と3週続けて悲しい最期を見せつけられましたが、『鎌倉殿の13人』はまだまだこれから。
たくさんの御家人たちの反乱における最期を見ることになります。
和田義盛もそう。
源氏の幕府なのに、案外、源氏は少ないんですね。