『鎌倉殿の13人』では北条義時の息子たちが登場してきますが、泰時は爽やか系の誠実な武将、朝時はちょっと問題児?
ドラマでは、朝時は「悪い奴じゃないんだけどなぁ…ちょっとねぇ…」みたいなボジション(笑)
泰時、朝時、そしてその下にもまだ子供たちがいます。
私は三男の北条重時が好きです。
『鎌倉殿の13人』では、重時は幼少の頃は登場していますが、成長してからは出てませんよね?
出てる?
私が見落としてる?
目次
北条重時の生い立ち
北条重時は、義時の三男として、建久9(1198)年6月6日に生まれました。
母は朝時と同じ比企朝宗の娘・姫の前で、同母兄弟に竹殿(大江広元の息子親弘の側室、後の土御門定通室)がいました。
義時36歳の時の子で、頼朝死去の前年に誕生しました。
6歳で比企氏の乱、16歳で和田合戦、22歳の時に実朝暗殺、24歳で承久の乱を経験したのち、京都から下った三寅の近習として活躍します。
重時という人物
重時は熱心な浄土教の信仰者で、家訓として「仏・神・主・親を敬い、心を広くもち、人に賞讃され、心を強く臆病に見えず、武芸に励み、番人に親しまれ、慕われ、皆々に声をかけ、貧しい様子の人に憐みをかけ、妻子親族にも常に機嫌よく、怒る姿を見せてはならない。」としています。
重時の活躍
泰時の執権下では、容体が悪化した泰時の息子時氏に代わって上洛し、六波羅探題の北方を務めました。
兄泰時の「耳目」として奔走し、33歳から50歳になるまでの17年間を京都で過ごしています。
また五代執権の北条時頼を娘婿としており、三浦一族が滅亡した宝治合戦の1か月後、鎌倉に下向し連署に就任しました。
重時は北条一門の長老として、若い時頼を支えました。
最期
弘長元年11月3日、重時は極楽寺別業で病死します。
西暦ですと1261年11月26日。761年前の今日です。享年64。
『吾妻鏡』では「発病の初めより万事を擲ち、一心に念仏す。正年に住し、終を取ると云々」と記され、熱心な念仏信者であった重時らしい最期でした。
北条重時の血筋
重時の娘葛西殿は北条時宗の母であり、その血は鎌倉幕府最後の執権北条高時まで受け継がれます。
昨日のNHK「あさイチ」のプレミアムトークは小栗旬さんでした。
『鎌倉殿の13人』の話も興味深かったですが、山本耕史さんの「筋トレ自慢」のお話が面白かったです。
11月6日㈰放送の船を海に浮かべる場面で話題だった「なぜか義村脱ぐ」の山本耕史さんはアドリブではなく脚本通りで、市原隼人さんの八田知家がアドリブで脱いだとのこと。
どっちにしろファンサービス(笑)