八田與一は日本統治期の1920年代から30年代にかけて、台湾中南部に大規模な灌漑施設「
近年になって「八田與一の物語」が語られるようになってきました。
目次
八田與一の経歴
東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業後、1910年に当時日本の統治下にあった台湾に台湾総監督府土木部技手として赴任します。
台湾ではダム及び灌漑施設建設の指揮をとります。
1930年には貯水量1億5000万トンの
その後も台湾技術協会会報などを務め、彼の優れた技術者としての成果を残していきます。
八田夫妻の最期
昭和17(1942)年、陸軍省から「南方開発派遣要員」に任命された八田は、綿作灌漑の調査のために大型客船大洋丸に乗船してフィリピンに向かいます。
その途次にアメリカ潜水艦の魚雷攻撃に遭って死亡します。
5月8日でした。80年前の今日です。
台湾に残された妻の外代樹は、1945年に子供と共に台北から鳥山頭に疎開しましたが、同年9月、ダムの放水路で投身自殺を遂げます。
台湾を愛した日本人
私は幼少期から思春期の時代を金沢市で過ごしましたが、学校で「八田與一」について学ぶ機会はありませんでした。
日本で「八田與一」が語られる契機となったのは、台湾の高雄日本人学校に教員として勤務していた古川勝三氏が、1983年に「台湾を愛した日本人」という記事を載せ、それに加筆して1989年に『台湾を愛した日本人~八田與一の生涯』と題して本を出版したことです。
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「八田物語」日本と台湾
日本で語られる八田物語
日本社会において、八田物語を好んで取り上げるのは、やはり土木建設業界です。
ここ数年でも『建設の施行企画』『土木施工』『全建ジャーナル』『土木学会誌』などで八田與一が取り上げられています。
これらの記事で、彼が勤勉で責任感があり、誰にでも平等かつ公平に接した人柄であり、台湾の人々に今なお慕われ続けていることがわかります。
職務上の業績の評価だけでなく、彼個人の資質にまで踏み込み、「日本精神」として讃えられています。
台湾で語られる八田物語
台湾での「八田物語」では妻外代樹について語られる場合が多いのです。
外代樹は敗戦直後に8人の子供を残してダムの放水口に見を投げました。
八田夫妻の遺骨は日本に帰らず台湾で埋葬されました。
八田が内地に戻らず亡くなり、「台湾の土」になったことが、故国を離れ職務に殉じたという悲劇的なイメージにつながり、「台湾を愛した日本人」としての八田像をより強く印象づけました。
八田は死後も台湾に残り、妻とともにダムを見守っている。彼の墓は地元住民が手厚く守っています。
まとめ
私の故郷である石川県から生まれた八田與一。
日本だけでなく台湾で深く愛された八田與一。
八田與一の技術者としての優れた能力と人間としての資質による、八田と台湾住民のあいだの愛情の深さ、そして悲劇的な最期。
日本による台湾植民地支配の歴史に「うしろめたさ」を感じている日本人が、「台湾に愛された日本人」の存在を知ることが、その罪悪感から解放されることに利用されているのではないかと、少々心配になります。
参考文献
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台湾は日本にとって「親しい隣人」だと思います。
2011年の東日本大震災において、当時台湾の方々は200億円を超える巨額の義損金を日本に送るなど、多方面で被災地支援をしてくださいました。
身近な隣人がすぐに手をさしのべてくれたことに、私たちは大変な感銘を受けました。
ロシアもどうかウクライナに対して、そういった「思い」を抱いてくれればと願います。