江戸時代は、「鎖国」と呼ばれる海外との国交を絶つ方針でした。
しかし長崎は海外と交流がありました。
出島にはオランダとの交渉に欠かせない人たちがいました。
目次
鎖国の江戸時代から幕末へ
「鎖国」という言葉は阿蘭陀通詞が作った言葉です。
ケンペルの本から「閉ざされた国」と記していいたのを「鎖国」と訳したのです。
どんな時代であっても、海外の国との交流に会話が必要です。
遣隋使とか遣唐使とか、筆談で会話したこともありますし、江戸時代はポルトガル語が共通語でした。南蛮貿易に関わった人はポルトガル語が話せるからです。
長崎の阿蘭陀通詞たちは英語も学びます。
ですから幕末で突然英語が出てきてびっくりした…ということはありません。
フェートン号事件
それまでオランダ語だけを話していた通詞が英語を学ぶようになったきっかけは文化5(1808)年の長崎のフェートン号事件です。
当時オランダ以外の船は長崎に入ることはできません。
しかしイギリスの軍艦フェートン号は長崎に侵入し、「出て行け」と迫る幕府に対し、イギリス大砲を誇示し港に居座り続けます。
この時うまく交渉ができなかった長崎奉行の松平康英は切腹をします。さらに英語ができず思うように交渉できなかった阿蘭陀通詞にも非難がいきます。
この事件後、幕府より「蘭語のみならず、フランス、エゲレス、加えてオロシアの言葉についても学び、覚えおくべし。」と指令が出ます。
英語とフランス語は出島のオランダ人に学ぶことができました。
しかしロシア語を学ぶことができません。
ロシア船艦長のゴローウニン
そして、ロシア船が北海道を襲撃するという事態が起こります。
そんな時、北海道の国後島でロシア船が捕縛されます。船長はゴローウニン(ロシア語: Василий Михайлович Головнин, Vasilii Mikhailovich Golovnin)。
ロシアの情報を入手する絶好の機会です。
この重要な任務を任されたのは馬場佐十郎です。佐十郎は急遽蝦夷へ渡ります。
獄中のゴローウニンとの会話は困難を極めましたが、馬場佐十郎が持っていたオランダ語フランス語辞典が役に立ちます。
阿蘭陀通詞の馬場佐十郎はオランダ語と日本語が話せます。ゴローウニンはロシア語とフランス語が話せます。当時フランス語は国際語だったのです。
ゴローウニンは文化10(1813)年、ロシアへと帰国します。
馬場はロシア語を習得することができ、その後英語も話せるようになり、海外諸国との交渉に生かされたのです。
この時、間宮林蔵もゴローウニンを訪問しましたが、間宮林蔵はゴローウニンにあまり良い印象をもたなかったようです💦
幕府の隠密であった間宮林蔵は密貿易の摘発も行っており、ロシア人を疑っていたようです。
馬場佐十郎のその後
馬場佐十郎は、オランダ語、英語、フランス語、ロシア語を話し、通詞として蘭学者として翻訳者として多忙を極めました。
そのせいでしょうか。文政5(1822)年7月27日、36歳という若さで病死します。201年前の今日です。
永瀬簾さん主演のNHKドラマ「わげもん~長崎通訳異聞~」で、阿蘭陀通詞の存在を知りました。
ドラマはちょっと微妙で、消化不良のような感じでしたが。