徳川家康の「康」は祖父7代当主松平清康からとったと言われています。
若くして亡くなった清康があと5年長く生きていたなら、天下は清康の時代にとれたのではないかと言い伝えられているほどに、すぐれた武将だったようです。
目次
松平家ファミリーヒストリー
松平郷の小さな領主だった松平家を大きくしたのが三代
室町時代に足利将軍家と松平家の繋がりを持つことに成功したのです。
この頃すでに本多氏や酒井氏が家臣となっていました。家康の時代に「四天王」と呼ばれる家臣たちです。
松平家7代当主清康
松平清康は永正8(1511)年9月7日に6代当主松平信忠の嫡男として生まれます。
512年前の今日です。
清康は13歳の若さで家督を継ぎます。
当時は若い清康を当主として認めていなかった家臣もいたとか。
叔父の松平信定が実権をにぎっていました。
しかし、清康は分家岡崎松平の養子となるなど、勢力的に領地を拡大します。
優れた武道で三河全域を手中に入れます。
また知略にも優れており、岡崎を松平家の本拠地とし、街を整備していきます。
源氏の末裔
2021年、松平の菩提寺である岡崎市の大樹寺の多宝塔(清康が建立)の内部調査で、柱の墨書の確認をしたところ「世良田」という文字が確認できました。
松平清康は世良田次郎三郎と名乗っていたと伝わっていますが、それを裏付けることができたのです。
「世良田」とは源氏の名門新田の分家の名字です。
清康は自らを源氏の流れを汲むものとして三河支配の正当性をアピールしたわけです。
後年、家康も同じような行動をとっています。
三河を平定した家康は「松平」から「徳川」と名乗るようになりました。
「得川」は同じく新田の分家の名字ですから、そこからとったのでしょう。
ここんとこ大河ドラマ「どうする家康」でやってましたね。
守山(森山)崩れ
守山(森山)崩れについては以前もブログで語らせていただきました。
天文4(1535)年12月3日。清康は1000人余りの手勢を率いて、岡崎を出陣。尾張に侵入し織田信秀(信長のパパ)の弟の信光の守る守山城を攻めるのです。
この時叔父の松平信定は三河に残り協力しなかったと伝わります。
そんな中、守山滞在の最中に大事件が起こります。
清康が重臣阿部大蔵の息子に殺害されてしまうのです。
守山崩れと呼ばれるこの事件により清康は25歳でこの世を去ります。
清康の死後、叔父の松平信定が岡崎城をのっとり、松平家の実権を握ります。
清康の嫡男の松平広忠は10歳で三河を追い出されます。伊勢遠江など各地を転々とし、1540年に松平信定が亡くなって、広忠はようやく岡崎城主になります。
徳川家康が生まれるのはこの3年後です。
NHKBSプレミアム「英雄たちの選択」で松平家のファミリーヒストリーについて放送していたので、まとめさせていただきました。
大河ドラマ「どうする家康」面白いですね(^_-)-☆
築山殿の死や石川数正の出奔など歴史の黒い部分を美しくまとめすぎている気もしますが。
第34回「豊臣の花嫁」では、山田真歩さん演じるあさひ姫(朝日とも旭とも)の号泣にこちらも泣きました。
放送終了後、あさひ姫について語った過去ブログの検索数がグググッとあがりました⤴