天正(1582)年6月2日未明、本能寺の変で織田信長が明智光秀軍に殺害されます。
441年前の今日です。
信長の同盟者であった徳川家康は堺(現在の大阪府堺市)にいたのですが、信長死亡の報に取り乱しながら、三河国(現在の愛知県)へ帰還します。
これが「神君伊賀超え」です。
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本能寺の変
京都本能寺での明智光秀による謀反は、家康41歳の時です。
この時、家康は、たまたま畿内にいたのです。
呑気に堺で観光見物をしていたのです。
家康たち一行は、わずか34人。
光秀に襲われては勝ち目はありません。
で、伊賀超えの逃亡を決意したのです。
伊賀ではなく、甲賀を通ったとも?
家康の「神君伊賀超え」は有名です。
しかし。
最近の研究では、伊賀を北に迂回する伊賀ではないルートで三河に戻ったのではないかとも考えられています。
なぜなら、伊賀ではその数年前から天正伊賀の乱が発生しており、信長が伊賀を侵略しています。信長の同盟者である家康に危険が及ぶ可能性があったのです。
伊賀越えについては一次史料が少なく諸説あります。
家康が送った和田定教への感謝状などから推測するに甲賀超えという説、また桜峠超えや御斎峠越えなどもあります。
2016年大河ドラマ「真田丸」では、頼りない服部半蔵が道案内して伊賀越えをしていましたが、これは『伊賀者由緒書』によるものです。
「どうする家康」では、千葉真一さんの息子さんである眞栄田豪敦さんに3代目服部半蔵正就を演じてほしいと熱望していましたが、眞栄田郷敦さんは武田勝頼でした(◎_◎;)
34名の帰還
4日間の逃亡で、誰ひとり欠けることなく、34人全員三河に帰還できました。
家康とともに上洛していた穴山信君も同行していましたが、途中家康一行とは別行動となり殺害されています。(自害説あり)
34名の中には、家康はもちろん、徳川四天王など徳川家の重鎮が揃っていて、もしもこの時に光秀の襲撃に遭っていたら、その後の歴史は大きく変わっていたでしょう。
「三河の一向一揆」「三方ヶ原の戦い」と並ぶ家康の大ピンチ「伊賀越え」
大河ドラマ「どうする家康」ではどのルートで三河へ帰還するのでしょうかね。