私の青春時代、日記は、独りでこっそりと書くものでした。
〇〇君が好き♥
頭にきた!
落ち込んだ・・・
嬉しい!
泣きたい(´;ω;`)
そんな感情を書きなぐったり、時にはポエムになったり、と楽しんだものです。
でも今はSNSで、日記を他人様に公表することも珍しくなくなりました。
平安時代の日記
古代では日記を記し、それを後の世の政の参考になるように残しています。
なので、自分の気持ちというよりは、時世だったり事件だったりと、真実が記されています。
真実といっても、権力に逆らうようなことは書けませんから、その時の権力者の都合のいいように改変されている可能性ありです。
①『貞信公記』・『九暦』
『貞信公記』は藤原忠平の日記で、忠平の子実頼が抜き書きした抄出本が伝存する。
抄出本は延喜7(907)年~天暦2(948)年までの記事を伝え、史料の少ない10世紀前半の社会状況を知る上で貴重な史料である。
『九暦』は藤原師輔(もろすけ)の日記で現存するものは延長8(930)年~天徳4(960)年までである。
②『御堂関白記』
藤原道長の日記。
平安末期には36巻存在した。
道長の直筆本14巻と古写本12巻が陽明文庫に現存している。記述は長徳4(998)年~治安元(1021)年までの記事を収めている。
応仁の乱でたくさんの古文書が燃えました。
藤原北家の流れを汲む近衛家は、応仁の乱によって邸宅を焼失したのですが、家伝の古文書50箱を京都の北郊の岩倉に疎開させたのです。その中に『御堂関白記』もあったわけで、難を逃れたのです。good job!
陽明文庫 Wikipediaより引用
③『小右記』
藤原実資の日記。
現存するのは、天元5(982)年~長元5(1032)年までで、円融・花山・一条・三条・後一条・後朱雀天皇の六代にわたる記録が残されている。
一年分の日記が残存しているのは、永祚元(989)年、寛仁3(1019)年のみである。
永祚は「えいそ」と読みます。パソコン変換一発で出てきた!すごくない?
④『権記』(ごんき)
毛筆の達人藤原行成の日記。
正暦2(991)年~寛弘8(1011)年の日記が残されている。
正暦年間は略記、長徳2(996)年は欠している。
朝儀・政治・政務の実態などが詳細に記述されている。
⑤『左経記』
参議左代弁源経頼(つねより)の日記。
経頼は一条から後朱雀の四代に蔵人・弁官を務めた優秀な実務官僚で、藤原道長・頼通の政治の様子、儀式の運営を知る上で重要な史料。
平忠常の乱(たいらのただつねのらん)が起きた時期で、詳しく記されています。
平忠常の乱(たいらのただつねのらん)は、平安時代に房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で1028年に起きた反乱。平安時代の関東地方では平将門の乱以来の大規模な反乱であった。
平将門の叔父平良文の子孫に当たる平忠常が乱を起こし、朝廷は討伐軍を派遣するが3年にわたって鎮圧できなかった。有力武士の源頼信が起用されるに及び忠常は降伏した。この乱により房総三カ国は大いに荒廃した。長元の乱ともいう。Wikipediaより引用
平忠常の乱って、あまり聞かないような?
日本史の教科書に載ってました?
平将門の乱なら有名ですが。
だいたいスクーリングでは、すぐに「これは高校で習いましたよね?」って言われるんですが、私にとって高校はもう40年も昔。覚えてないよ~(^^;
平将門の首塚
先日たまたま観たNHKBSで、東京駅近く大手町にある平将門の首塚の碑に手を合わせている品の良さそうなサラリーマンが映し出されていました。
平将門は、土豪、百姓を組織し、朝廷の悪政に反逆した「平将門の乱」を起こしたものの、下総で討死。
将門の首は、京都でさらしものになったものの、
「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続け、関東を目指し飛び立ち、何か所にも落ちたという。
で、1番有名なのが、大手町の三井物産の東側だそうです。
現在はリストラを恐れるサラリーマンたちから
「首塚だけにこれ以上クビを斬られない」
「左遷されても舞い戻られた将門様に願かけすれば栄転して戻ってこれる」
「首を守る神様」
と、守り神になっているそうです。
平将門の首塚は、壊すと祟りがあると恐れられているそうで、今は近隣の企業が協力して維持管理をしているそうです。
時代に翻弄され、時の権力者に利用された平将門。
ご存じ昭和51年NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」で平将門の生き様が描かれました。
演じる加藤剛さんは、なんと爽やかな武将であったことか。
昨年末に、NHK「あの日 あのとき あの番組~アーカイブス」で最終回を放送していました。
昨年80歳で亡くなった加藤剛さん。お悔やみを申し上げます。