ワタクシ、ひとりで盛り上がってます。
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の最終回直前ですが、このタイミングで明智光秀の最期をあれこれ考えて、ブログ記事にしてみたいと思います。
ネーミングバラエティ 日本人のおなまえっ!【麒麟がくる 本能寺の変SP】でやっていた明智光秀がちょっと面白かったので、その考察をしてみたいと思います。
2月13日㈯ 午前10:50までNHKぷらすで見逃し配信をやっています。
余計なこと考えずに、純粋な気持ちで今夜の最終回に挑みたいという方も多いと思います。
申し訳ないのですが、その方々は、ここから先は読まないでくださいね。
目次
番組の最後のテーマ「明智光秀は生きていた」というのは、大変興味深く私の願いでもあります。
山崎の合戦後農民に殺されたという説が一般的ですが、それを覆す(かもしれない?)考察でした。
四国
本能寺の変直前に長宗我部元親が光秀の重臣にあてた書状が発見されたと林原美術館(岡山市)と岡山県立美術館が発表しています。by『
長宗我部元親は、光秀の重臣齋藤利三とは義理の兄弟の関係です。
番組では、山崎の合戦後、光秀の親族は長宗我部を頼って四国に逃げ延びたという説を紹介しています。
明智は、明智の「明」と明るい「星」をとって「明星家」と改名して四国の地に根をおろしたというのです。
愛媛県新居浜市に住んでいらっしゃる明星さんの家紋は、明智光秀の家紋と同じ「桔梗文」
身を隠した明智一族が星のように再び輝くために「明星」と名乗ったと、その子孫らしき(?)明星さんはおっしゃいます。
岐阜県山県市
そして親族ではなく、明智光秀本人が生きのびたのではないかという説。
岐阜県山県市、中洞白山神社には光秀が使ったという産湯を汲んだ井戸があります。
明智光秀は、山崎の戦での敗戦後、生まれ故郷である岐阜県山県市に逃げ帰ったという説です。
番組に出演されていた荒深さんは光秀の子孫だとおっしゃいます。
逃げ帰った時に「明智」という名前が使えないために、直近の家臣である荒木山城守から、名前をもらったというのです。
本能寺の変から11日後の天正10(1582)年6月13日、光秀が戦に負け自害しようとしたところを側近の荒木山城守が止め、「拙者、身代わりになりましょう。殿はお逃げくだされ。」と言い出し、光秀がそれを承知し、荒木山城守と明智光秀が入れ替わったという説です。
光秀は荒木山城守になりすまし、美濃国に帰り着いたのです。
美濃国で暮らす上で、光秀は「荒木山城守」の「荒」と、忠誠心に対して恩義が深いその「深」をとって、苗字を「荒深」とし「荒深小五郎」と名乗りました。
荒深小五郎こと明智光秀は、75歳の時に、慶長5(1600)年の関ケ原の合戦において豊臣方と戦うために出陣し、その道中志半ばにして生涯を終えました。
まとめ
すみません、名前から明智光秀を考察するという企画は面白かったのですが、明智の生存説はどちらもあまり説得力がなかった(笑)
とくに四国の、家紋だけで光秀の子孫が四国に定住したという説は、あまりに証拠品が少なすぎます。
でも岐阜の逸話にしろ、光秀に生きのびて欲しかったという民が、日本のあちこちに存在していたということでしょうか。