ご訪問ありがとうございます。
前回記事に続き、「北海道開拓使」について述べさせてください。
お付き合いくださる方、どうもありがとうございます。
戦争、そして戦後。
大地に挑んだ人たちの開拓です。
目次
第二次世界大戦
戦争色が濃くなってきた時代。
働き手の男性は次々に出征します。
出征するのは人間だけではありません。
小型でも力のある北海道の馬は、戦場で重宝されます。
炭鉱も戦時体制です。
労働者は鉱山戦士と呼ばれ、石炭の増産が計られました。
室蘭市
「鉄の町」室蘭市には、当時構内有数の軍事工場がありました。
日本製鋼所室蘭製作所です。
軍艦や戦車に使われる特殊な鋼鉄を生産していました。
技能者の養成所もありました。
高等小学校を卒業したばかりの若い少年たちが訓練を受けます。
空襲
昭和20年。北海道も空襲を受けます。
青函連絡船が攻撃されます。
函館付近を走る列車も狙われました。
室蘭は空襲と軍艦からの攻撃によって、北海道で最大の被害を受けました。
工場や住宅が徹底的に破壊されました。
終戦後
昭和20年、8月。戦争が終わり、北海道は新たな時代を迎えます。
昭和の北海道開拓使
全国各地から、北海道へやってきます。
引き揚げ者以外に、空襲で焼け出された人たちが新たな開拓使となります。
開拓の歴史が再び始まります。
国から土地が割り当てられました。ほとんどが荒地で生活は困難を極めました。
斧とのこぎりだけで開墾します。米作りや酪農を始めたいと大地に挑んだのです。
炭鉱も、農業も、漁業も
炭鉱の労働者も、農村の農業従事者も、復興に向かって懸命に努力します。
復興が進むにつれて、北海道は日本の食糧基地となっていきます。
昭和23年、25,000戸の農家で60,000頭の乳牛が飼われていました。
北海道で作られるバターは全国の7割、チーズは5割を占めていました。
戦後の乳製品需要の高まりが北海道の酪農家に希望を与えました。
昭和27年、北洋漁業も再開されます。
北海道、実りの時
青函トンネル
昭和29年9月、台風15号が北海道を襲います。
青函連絡船洞爺丸が遭難しました。犠牲者1,155人。
この事故をきっかけに青森と函館を結ぶ青函トンネルの建設へと進みます。
観光地としての北海道
昭和45年頃から、北海道の雄大な自然が人気となります。
全国から観光客がやってくるようになりました。
開拓の歴史は実りの時を迎えます。
戦後大規模化を進めてきた農業は、稲作・畑作・酪農と、全国のトップを走っていきます。
札幌オリンピック
札幌オリンピックの開催が決まると街の発展に拍車がかかります。
札幌の街は、地下鉄や地下街など巨額を投じた工事で大きく姿を変え、オリンピック効果で15~20年早く発展したといわれます。
昭和45年、札幌の人口は100万人を超えます。
オリンピックは開拓の歴史のまさに頂点でした。
模索の時代
石炭から石油へとエネルギーの変換期を迎え、炭鉱は次々閉山していきます。
三菱美唄炭鉱も昭和47年閉山しました。
コメ余りの時代を迎え生産調整が始まります。
北海道の米は良質でないとされ、北海道農業の減反政策は他の地域より厳しくなります。
昭和54年、牛乳が生産過剰になり、割り当てを超えた牛乳は出荷できなくなります。
昭和60年、酪農家は1戸あたり3,000万円を超える借金がありました。
北海道の支えてきた産業が曲がり角にさしかかったのです。
平成5年、北海道南西沖地震が発生します。
奥尻島では198人の犠牲者がでました。
さまざまな苦難を乗り越えてきた北海道民。
希望を胸に新天地にやってきた開拓者たち。
ゆるくなかった開拓時代。
開拓の歩みを止めた戦争。
戦後新しい北海道を作ろうと立ち上がった人たち。
北の大地、北海道。新しい世紀、人々はどんな夢に挑むのでしょうか…と『日本 映像の20世紀』は締めくくられています。放送は前編が2000年1月8日、後編が1月15日でした。
2年前、東京オリンピック2020でのマラソン競技が札幌で行われると決まった時、こんなカキコミをみつけました。
おそらく東京でマラソンを行うことを希望していた人でしょう。
「マラソン当日、札幌が東京より暑くなればいいのに!」
とても悲しかったです。
札幌がマラソン競技を誘致したわけではなく、いつの間にやら回ってきただけなのに。
ここにくるまでオリンピックは本当にいろいろありました。
メダルの情報も毎日飛び込んできますが、メダルよりも、どうかみんなが安全に楽しくオリンピック参加できますようにと願ってやみません。