暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

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北海道八雲の木彫り熊と尾張徳川家

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北海道民でなくても、昭和の頃には木彫りの熊が飾ってある家が多かった。

実は、工芸品としての「木彫り熊」は、100年前の1924年に、北海道八雲町で彫られたものが第1号だといいます。

 

 

目次

 

八雲町と尾張徳川家

八雲町の名前

八雲町の名は、「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」(須佐之男命)という日本最初の和歌から、尾張徳川家第17代当主の徳川慶勝命名しました。

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■日本最古の短歌■
八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」(やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを)
八雲立つ」は八重の雲が湧き起こる意で、出雲をたたえる枕詞。
「八重垣」は幾重にもめぐらされた立派な垣。
出雲に降(くだ)った須佐之男命(スサノオノミコト)が櫛名田比売クシナダヒメ)を妻とする新婚のうた。妻を籠もらせるための八重垣をつくろうよ、という意味。

 

八雲開拓

慶勝は、廃藩置県で職を失った旧尾張藩士のために、八雲で徳川家の資本による開墾を決意したのです。

最初の移住者として、明治11(1878)年、名古屋から15世代と単身者10人がやって来ました。

先住民族アイヌの住んでいるところ、江戸時代から和人が漁業を営んでいるところを避けて、内陸部に移住したのです。

開拓使から150万坪の土地を無償で付与され、道路など生活に必要なインフラ整備を尾張徳川家が担いました。

西洋農具を導入して畑作に取り組み、八雲は繁栄期を迎えるのです。

 

木彫り熊

しかし、第一次世界大戦終結してヨーロッパの農業が再興し、澱粉生産が復活すると、輸出していた澱粉が売れなくなり、沈滞します。

そんな八雲に木彫り熊を持ち込んだのが、第19代当主の徳川義親でした。

尾張徳川家が明治時代に旧藩士の移住を主導し、自身が経営する農場がある八雲で、木彫り熊の製作を勧めたのです。

 

 

徳川義親

徳川義親は明治19(1886)年10月5日、東京府小石川の越前松平家本邸で生まれます。

138年前の今日です。

父親は越前福井藩主・松平慶永(春嶽)、母親は側室の糟屋婦志子かすやふじこでした。

側室の子であるがゆえに、身分の違いを意識するように育てられ、礼儀作法を厳しく躾けられたといいます。

尾張徳川家第18代当主徳川義礼よしあきらの長女米子と結婚し、尾張徳川家家督を相続します。

 

義親と木彫り熊

義親はヨーロッパ旅行のスイスで木彫り熊に出会います。

それは農民が副業で彫ったペザントアート(農民美術)の1つでした。

義親は、ペザントアートが収入と心の豊かさの両方をもたらすことを知り、帰国後八雲の農民にスイスで購入した木彫り熊を見本に製作を勧めるのです。

 

 

義親の功績

義親は、開墾が一段落すると、土地と家屋を移住者に無償で譲渡し、残りを徳川農場とします。

欧州旅行の際、デンマークで酪農が豊かな農村を築いていることに気づくと、八雲に畜牛組合を組織し、酪農への転換を導きます。

ほぼ毎年春、八雲でアイヌと共に熊狩りを行い冬眠中の生態を究明し、動物学雑誌に論文を投稿したり、生け捕りにした子熊に名前をつけて徳川農場で飼育したりし、アイヌの熊送りの儀式にも参加しました。

 

アイヌの生活改善に尽くす宣教師のジョン・バチラーの社会事業にも支援しました。

バチラーが『アイヌ・英・和辞典』を編纂する資金も提供します。

 

アイヌ文化と日本文化への敬意と類まれな実行力。東京帝国大学文科大学史学科と同理科大学植物科の両方で学んだ文理両面の知見の持ち主でした。

 

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北海道の木彫り熊は、今またブームを迎えているそうです。

お土産品というよりは、自分のために買い求める人が多いのだとか。

バットを振る熊、スキーで直滑降する熊…など、熊も多様化しています。

 

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