NHK大河ドラマ『青天を衝け』で徳川
『西郷どん』の時の松田さんが演じられたヤンキー慶喜とは、また違ったイメージです。
目次
慶喜の生い立ち
慶喜は一橋家に生まれたわけではありません。
水戸藩主徳川斉昭と皇族出身の登美宮吉子との間に生まれたのです。徳川と皇族、2つの血を受け継いだ子供でした。
七男だったため、幕府からの意向で、
御三卿って何?御三家とは違うの?
一橋家
慶喜は弘化4(1847)年に一橋家の当主となります。
一橋家には城もなく、家臣も主に幕府から出向してくるものたちで賄われていました。
独立した大名ではなく、あくまでも将軍家の家族。
政治的実権をもたない存在でした。
次期将軍候補になる
嘉永6(1853)年ペリーが浦賀に来航し、日本は大混乱になります。
その時の将軍は13代徳川家定。家定は内気で病弱、緊急事態に適切な判断を下すことができません。
そのため次期将軍を決める必要があったのです。
慶福(家茂)VS慶喜
その将軍候補になったのが、わずか10歳の紀州藩主徳川
しかし、薩摩藩主島津斉彬や越前藩主松平春嶽が17歳の徳川慶喜を次期将軍にと推します。
薩摩藩と
越前藩
力あったんですね。
ここのところは過去の大河ドラマでも何度も大きく取り上げられています。
印象的なのは『篤姫』でしょうか。
慶喜は血縁では慶福に遠く及ばず、だいたい慶喜の実父徳川斉昭は口うるさく幕府と折り合いが悪かったのに。
徳川慶喜は優秀で優しい人柄だった
ただ尾張徳川家に保管されていた『慶喜公御言行私記』などの文献からみても、慶喜はトップに立つ人材としてもそして人間的にも優れた人だったと研究されています。
『慶喜公御言行私記』は慶喜の側近平岡円四郎が作成したわけですから、悪く書くわけがないのですが。『青天を衝け』では平岡円四郎を堤真一さんが好演していらっしゃいました。
慶喜を推す勢力と慶福を推す勢力の対立は深まりますが、大老井伊直弼は血筋を重んじて、慶福が14代将軍徳川
選挙(?)に敗れた慶喜ではありますが、この選挙運動により、一橋慶喜は大きく政界の表舞台に登場することになります。
将軍後見職の就任と辞職
世の中は尊王攘夷運動が盛んになります。
これを機に、慶喜に期待が高まり、将軍後見職に就任することになります。
皇族出身の母を持つ慶喜は、幕府の人間でありながら朝廷にも比重を置きます。
天皇の願いを尊重しつつ、慶喜は宙ぶらりんの意見でのらりくらりとかわしますが、長州藩が文久3(1863)年8月18日の政変で、京から追放されます。
ここでしゃしゃりでてきたのが、薩摩藩の島津久光(斉彬の異母弟)です。公武合体を唱えます。
久光は、参与会議での慶喜の暴言もあり、あまり慶喜と仲はよろしくなかったようです。
慶喜は将軍後見職を自ら辞職すると
何、その役職?漢字ばかりで意味わかんない。
私にもよくわからないのですが(笑)
幕府というよりは、天皇の命で就いた役職ですね。王城と大坂を防衛するのです。
慶喜はその長い役職を名目に、薩摩や会津の支援の元、長州と闘い、孝明天皇から厚い信頼を得るのです。
第15代将軍徳川慶喜
そうこうしているうちに、薩摩は天皇ではなく長州と結びます。
おまけに将軍家茂が亡くなり、慶喜は将軍にならざるを得なくなります。
第15代将軍徳川慶喜の誕生です。30歳。
そのわずか20日後孝明天皇が亡くなります。つまり攘夷という天皇の願いから解放されることになります。日本の開国へと動き出します。
大政奉還
『青天を衝け』でもおわかりのように、渋沢栄一がフランス留学している間に、江戸幕府は終わりました。
薩摩藩や長州藩が倒幕のクーデター計画を企んでいるのに対し、慶喜は先手を打ったわけです。
慶応3年10月14日に江戸幕府第15大将軍徳川慶喜は政権返上を明治天皇へ奏上します。154年前の今日ですね。西暦では1867年11月19日です。
慶喜は264年続いた幕府を終わらせたのです。
明治での暮らし
新政府で慶喜は要職に就くと見込まれましたが、それを薩摩長州は許さなかった。
ついでに岩倉具視も結託します。
慶喜に対して辞官納地を言い渡します。
慶喜は新政府から排除され、全ての官位を奪われ、謹慎を命じられます。
その後慶喜は、静岡や東京で隠居生活を送ります。←『青天を衝け』は今ココ
波乱万丈の前半生とは違い、写真や油彩画などの趣味を楽しみ、悠々自適の日々を過ごすのです。←悠々自適の生活が送れたのは渋沢栄一が経済的に支援したからこそ
名誉回復も図られ明治35年には公爵に叙せられます。
徳川慶喜は、自らを政治の表舞台から追いやった西郷隆盛(49歳で自害)より、辞官納地を下した大久保利通(47歳で暗殺)や岩倉具視(59歳の時に癌で)よりずっと長生きし、大正2(1913)年77歳で亡くなります。
4月に放送されたNHKBSプレミアム『英雄たちの選択』をまとめてみました。
慶喜が大政奉還を無血で遂げたというのはものすごい偉業だと思います。
戦えば、幕府やその相手にもっと被害者が出る可能性は大きかった。そこを評価すべきだと思います。
残念ながら、明治になる頃、平岡円四郎を始め慶喜の優秀な側近の多くがすでに暗殺されていた。それもあり、慶喜が明治以降政治の中心になることはできなかったのです。