日本に初めてキリスト教が伝わったのは、今から遡ることおよそ470年前。
日本は戦乱に明け暮れる戦国時代。
人々はキリスト教に救いを求めた。
大名とて例外ではない。
イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルを手厚く保護したのが豊後の大名
ルイス・フロイスは大友宗麟を「日本にある王侯中、最も思慮あり聡明英知の人」と紹介しています。
目次
家督相続への道
大友宗麟は享禄3年1月3日、大友義鑑の嫡男として九州豊後国府内に生まれました。西暦でいうと1530年1月31日。492年前の今日です。5月4日説あり
鎌倉以来およそ400年にわたって、国を治めている大友家です。
ただ嫡男でありながら、家督相続はすんなりといかず、弟塩市丸を推す一派があり、そのいざこざで弟と父は亡くなったという悲劇。
大友宗麟の南蛮貿易とキリスト教
世界は当時大航海時代。
九州の大名は陸上だけでなく海上勢力とも立ちあわなければいけないと大友宗麟は考えました。
当主の座についた宗麟は南蛮貿易に力を入れました。
九州という地は、異文化や異宗教とか異民族を排除しない寛容性があるんですね。
宗麟は天文20(1551)年、宣教師フランシスコ・ザビエルを館に招き入れます。
彼(大友宗麟)は司祭に対して敬意を表し愛情をこめて歓迎した。
ルイス・フロイス『日本史』より
当時ポルトガルとスペインは海外植民地を獲得するために、躍起になってました。
カトリック教会はこの枠組みに乗っかって布教活動をしていたのです。
大友家最盛期
布教の見返りとしてポルトガルとの交易が認められ、大友宗麟はそれを承諾し、府内は西洋文化が取り入れられ、街は活気づきます。
当時毛利氏と争っていた宗麟はポルトガルから鉄砲玉や大砲なども手に入れ、大友家は繁栄していくのです。
永禄2(1559)年、九州6か国を領有し宗麟は九州探題に任じられます。
一方でキリスト教の布教活動も続けられています。
この頃、キリスト教信者は全国で10万人。
宗麟、出家する
しかし日本古来の宗教と対立するようになり、神社仏閣の破壊なども行われるようになります。仏教徒も放火したりして、宗教間の軋轢に大友宗麟も悩みます。
宗麟は「このままじゃ殺されてしまう」と考え、永禄5年キリスト教を保護しながらもなぜか剃髪し出家します。大友君、君はキリスト教信者か?なのに仏教禅宗の信者か?
大友宗麟は何を目指していたのか。
日向出兵からの秀吉九州制圧
天正4(1576)年、薩摩の島津氏が日向の伊東領内に侵攻します。
伊東氏は宗麟に援軍を求めてきます。
大友家は島津氏に積み荷ごと船を横領されたという恨みがあり(本当に島津氏が犯人なのか?)両家は複雑な関係でした。
『大友興廃記』によると天正6(1578)年9月下旬に大友宗麟は日向へ出兵したと記録があります。この時に宗麟はキリスト教の洗礼を受けます。
日向国に侵攻する島津軍。迎え撃つ大友軍はコテンパにやられてしまいます。
命からがら宗麟は撤退します。
勢いにのった島津軍は九州北部への侵攻を開始し、大友家の領地にも殺到します。
追い詰められた宗麟は豊臣秀吉に援軍を要請します。
天正14(1586)年、宗麟の依頼に応じた豊臣秀吉が九州へ侵攻。翌年島津は降伏します。
結果九州全域が豊臣秀吉の手に落ち、大友家は秀吉配下の一大名となります。
宗麟らが派遣した天正遣欧使節
近畿地方などにもキリスト教が広まり、布教をもっと広めようと、大友宗麟らは少年たちをローマ法王のもとに挨拶に行かせようとします。
天正遣欧使節については、先日放送した『黄金の日日』第40回でもやっていました。
その第40回『利休切腹』で大友宗麟の名前も出てきました。少年たちが帰国した頃に大友宗麟はすでに亡くなってるわけですが。
そう、豊臣秀吉が九州を手中にいれた直後、天正15(1587)年、宗麟は病に倒れ亡くなります。享年58。
宗麟が亡くなった一月後、秀吉は突如バテレン追放令を出します。
この後、秀吉から徳川への時代。キリスト教徒は厳しい道を歩むのです。
天正遣欧使節の物語はAmazonプライム『MAGI』が面白いです。
『黄金の日日』では緒形拳さんが豊臣秀吉を演じてらっしゃいますが『MAGI』ではその息子緒形直人さんが秀吉を演じていらっしゃいます。
宣教師アレクサンドロ=ヴァリニャーニが天正遣欧使節を連れて日本を発ったのは1582年。
それは本能寺の変の年です。
ヴァリニャーニが帰ってきたのは1590年。それは秀吉が天下統一を果たした年。
つまり、天正遣欧使節は、豊臣秀吉がチャンスをつかんで(本能寺の変)から、天下を統一するまでと時間がぴったり一致していますね。
こんなふうに、年号と出来事を絡めて覚えると、頭の中がすっきり整理できます。