大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康の側室が何人も登場しています。
大河ドラマの主人公は側室をもたない武将の方が好まれるようです。
私は石田三成が好きです。
「どうする家康」では、中村七之助さんが演じられています。
主演の松潤とは高校の同級生だそうです。
目次
石田三成とその妻
石田三成にも側室はいませんでした。
三成の妻は、宇多頼忠の娘で
三成と皎月院が結婚したのは天正6~7(1578~79)年頃といわれています。
2人の間には重家、重成ら3男3女の子が誕生しました。
皎月院の史料は乏しく、その生涯は神秘のベールに包まれています。
慶長5(1600)年9月の関ヶ原合戦で三成が破れると、佐和山城(滋賀県彦根市)にいた皎月院は、三成の家臣土田桃雲によって殺害されたといいます。
その最後や没年にも諸説あります。
重成の子孫である弘前藩士杉山家では、三成の妻は三成の刑死後に自害したという伝承を残しています。
三成が京都六条河原で処刑されたのは、慶長5年10月1日。西暦ですと1600年11月6日。
423年前の今日です。
まじめ武将三成の逸話
「どうする家康」第41回「逆襲の三成」で、松潤家康も言っていましたが、「三成は損得で動くのではなく、己の信念によって生きている。」のです。まじめなのです。
そんな三成、以前は加藤清正人気などのヒール役に回り、あまり人気がなかったのですが、最近は私のように三成贔屓が増えているようです。
そんな三成には多くのエピソードがあります。
三献茶
有名な「三杯の茶(三献茶)」の逸話は寺小姓をしていた頃の三成の頭の回転の速さを物語っています。
鷹狩りの帰りに寺院に立ち寄った秀吉が、寺小姓(三成)に茶を所望した際、最初の一杯は大きめの茶碗にぬるめの茶を、次にやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小ぶりの茶碗に熱い茶を出した…その気遣いで、秀吉が気に入り、彼を家臣とした話です。
大谷吉継との友情
秀吉が開いたお茶会において、一口ずつ飲み次へ茶碗を回す回し飲みがされました。
らい病を患っていた大谷吉継は飲むふりのみで茶碗を回そうとしましたが、顔から出た膿がお茶に落ちてしまいました。
以降の諸大名は茶に口をつけるのを嫌がり飲むふりだけで茶碗を回していましたが、三成はためらわず茶を飲み干したそうです。
石田三成と大谷吉継の良い関係が象徴されるようなエピソードです。
大谷吉継のお茶に関してのエピソード、「どうする家康」第41回「逆襲の三成」でそれを感じさせる場面がありましたね。三成の「うつして治る病なら、私にうつせ!」良い台詞でした。
以前は三成の「嫌われ者」イメージが強かったのですが、三成には小西行長や真田信幸など親しい武将が何人もいたそうです。
三成と淀殿の関係
豊臣秀頼が豊臣秀吉の実子ではなく三成が淀殿と密通して産ませた子であるという説が昔ありました。
2014年大河ドラマ「軍師官兵衛」などはその「匂わせ」がありました。
諸説あるかと思いますが、淀殿不行跡の史料的根拠である『萩藩閥閲録』によると、三成が秀頼の父親であるとは考えにくいとのこと。
関ヶ原の合戦で石田三成を敗北させたこと、大坂夏の陣で淀殿と秀頼を死においやったこと、それらの理由づけとして、江戸中期以降に徳川方からそういった説を流したのではないかと私は思っています。私の個人的な見解です。
大河ドラマ
以前、大河ドラマで主人公になってほしい人物として、石田三成をあげました。
しかし、戦国時代のお話はちょっともう飽きてきた?
「どうする家康」の石田三成は、私好みに描いてくれて嬉しいです。
「真田丸」を思わせる真田家の知略もおもしろい。
しかし、関ヶ原の合戦を来週にまで引っ張るとは。