暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

実家の母を介護するために北海道から引っ越してきました。その介護も終わり、片づけと大学通信教育部の勉強と猫と。そんな雑記ブログです。当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

時代の先駆者、平清盛

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NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公北条義時

1979年の大河ドラマ草燃える』で北条義時を演じたのは松平健さんでした。

素朴でどこか不器用な田舎武将の二男坊が、後半は日本の政治を担っていく野心家へと変わっていく様が圧巻でした。

 

そんな松平健さんも60代後半(?)となり、今回『鎌倉殿の13人』で演じてらっしゃるのは平清盛

そりゃあ迫力ですよ。

今日のブログは史上初の武家政権を成り立てた平清盛について語らせてください。

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目次

 

平清盛とその父忠盛

平清盛(1118~1181)。

生まれたのが1118年で、亡くなったのが1181年。

なんだか覚えやすい年号ですね。

生まれたのは永久6年1月18日。ユリウス暦1118年2月10日。904年前の今日です。

 

父は平忠盛

平安末期平家躍進の足掛かりを築いた人です。

 

その頃中国では統一王朝宋(南宋)は火薬兵器の増産を計り、その原料となる硫黄を近隣諸国に求めていました。

忠盛は日本で採れる硫黄と引き換えに宋から貴重な品々を入手し、宋との関係を築いていきます。

舶来品を貴族への貢ぎ物に使い、忠盛は公家社会に食い込んでいくのです。

朝廷で異例の出世を果たしていきます。

 

清盛の活躍

忠盛の嫡男、平清盛の名が轟くようになったのは、保元元(1156)年の保元の乱

皇位継承をめぐり、崇徳上皇後白河天皇(この頃はまだ上皇ではない)が対立し、清盛の活躍が天皇方に勝利をもたらしました。

3年後の平治の乱も武力で鎮圧。

www.betty0918.biz

 

しかし、戦いが終わっても院政を敷いた後白河院のまわりでは諍いが絶えませんでした。

清盛は有力者の間であちこちに気配りを重ねてうまく立ち回ります。人をあまり傷つけない、身分の低い人にも決して高圧的な態度をとらないという、私が描いている清盛とはちょっと違うイメージ?←ここんとこちょっと武士らしからぬ性格ですね。

 

清盛出家する

清盛は天皇外戚(妻時子の妹が高倉天皇の母)となり権勢をふるっていたのに、52歳の時に突如出家します。

病気の療養が目的だったと伝わります。

病が癒えても、都には戻らず、摂津国福原(現在の神戸市)にとどまります。

 

日宋貿易

平家物語』によると清盛は豪華絢爛な財宝に囲まれていたというくだりがあります。

宋との貿易で手にしたものです。

 

■ココ大事■
宋船の往来のために、平清盛摂津国大輪田泊おおわだのとまりを造る。

播磨ではなく「摂津」と覚えてくださいね。 漢字もまちがえないでください。 日宋貿易だから輸出輸入だと思って「輸」と書かない。車輪の「輪」です。

 

 

大輪田泊奈良時代からあった港ですが、宋からの大型船を迎えるには不向きでした。

清盛はこの港の工事をします。工事の成功を祈って独りの少年が自ら志願して人柱となり命を捧げたとか。

 

宋銭の普及

清盛はどうしても日宋貿易宋銭を手に入れたかったのです。

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画像はイメージです

日本では8世紀以降和同開珎を始めとする貨幣を発行していましたが、経済が未熟で通貨として定着しませんでした。

人々は昔ながらの絹や米でやり取りしていたのです。

 

平清盛は宋銭を普及させようとしました。

商売で物を取引する際に人々は便利な宋銭を使うようになりました。

逆にそれまで使われていた絹や米の価値が下がります。

困ったのはそれまで荘園から直接得る絹や米に依存していた貴族や寺社勢力です。宋銭の普及は資産の目減りを意味しました。

 

法律の改正案

高倉天皇奈良時代から続いていた沽価法こかほうと呼ばれる法律の見直しを命じます。

沽価法とは、古代から中世にかけての日本において、朝廷国衙鎌倉幕府において、市場における公定価格及び物品の換算率を定めた法律。これに基づく価格估価沽価)と呼び、租税の物納や日本国外との貿易の価格や交換の基準としても用いられた。

Wikipediaより引用

商品レートの交換を定めるのに、米や絹だけではなく宋銭を新たに基準に加えるべきではないかと高倉天皇が提案したのです。高倉天皇を裏で操っていたのは清盛か?

平清盛は宋銭を公認させて、ますます大儲けしようって魂胆ね。

しかし九条兼実ら貴族の猛反対にあいます。兼実の日記『玉葉からして、宋銭の公認はかなわなかったと考えられます。

 

平清盛、絶好調

承安元(1171)年、清盛は娘の徳子を高倉天皇に入内させ、天皇の岳父となります。

その7年後、徳子は男の子を産みます。平清盛の孫ですね。後の安徳天皇です。

典型的な外戚政策です。

 

清盛は治承3(1179)年嫡男重盛を亡くします。

反平家勢力は後白河を抱き込み、平家への圧力をかけます。

耐えかねた平清盛後白河法皇を幽閉し、完全に独裁化します。

■ココ大事■
清盛が後白河法皇を幽閉し、後白河院政をストップした1179年の事件を治承の政変という。クーデターです。

清盛は、孫の安徳天皇を3歳で即位させちゃいますよ。

 

清盛の死と宋銭のその後

しかし。

平家の時代が新しく始まるかに見えたその矢先、平清盛は病に倒れるのです。

治承5(1181)年閏2月4日、その生涯を閉じます。享年64。

 

政府は、宋銭の禁止令を幾度か出しました。

しかし清盛が亡くなり、平氏が滅亡しても、宋銭の流通が止まることはありませんでした。

江戸幕府が自ら貨幣を発行するまで、およそ400年。清盛が普及に翻弄した宋銭は使われ続けました。

 

 

清盛が亡くなった後、文治元(1185)年、平家滅亡。

1185年の壇の浦の戦いで平清盛が亡くなったと勘違いしてた人いませんか?

え?

私だけ?

 

『鎌倉殿の13人』では、この辺りをどのように描くのでしょうか。

平氏滅亡まで、源義経木曽義仲、活躍しますよ。

木曽義仲については、またそのうちに😊

 

 

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