その昔、中国では冬至から105日めの日を「寒食節」といいました。
2021年の冬至は12月22日でしたから、105日めは今日です。
『夷堅志』の中の逸話に『呂使君宅』という話があります。
この中に寒食節という言葉が出てきますので、この頃は寒食節の習慣があったのだとわかります。
目次
『呂使君宅』~『夷堅志』逸話集より
賀忠と呂令人との出会い
淳煕(1174年~1189年)の頃、後軍副将である賀忠は、道に迷ったため、呂長官の大きな屋敷に泊まることになります。
呂長官はすでに亡くなっており、屋敷には40歳近くの上品な未亡人が侍女たちと住んでいました。
未亡人は賀忠を誘います。
「自分は野暮ったくて、美女と関わる輩ではない」と賀忠は断るのですが、「いえ、天命ですから遠慮なさらず。」という未亡人の誘惑をとうとう受け入れます。
結局賀忠は3日も泊まるのですが、別れの日に未亡人はたくさんの餞別を渡し、「姉に手紙を持って行ってください。」と賀忠に頼みます。
賀忠と呂令人の姉との出会い
賀忠は手紙を持って、姉の邸宅がある湖畔へ赴きます。
賀忠は、姉とも関係を持ちます。おまけにまた黄金・珠玉に銭や絹を車に積み込んで帰ります。これ以降、3,4日ごとに1回は出向きます。
賀忠の妻は、財物を得られたので、一切問いただしませんでした。
え?賀忠って奥さんがいたの?ふ~りんじゃん!
そう、これはふ~りん物語だったのです。
賀忠と姉との関係が、呂令人(呂長官の未亡人)の知るところとなり、激しく叱責されますが、三夜哀願してやっと許されます。
妻の死、再婚、賀忠の死後の財産分与
それから半年が経ち、賀忠の妻が亡くなり、その埋葬費用は、すべて呂氏(その妻)から出されます。そして正式に継室(後妻)となります。
3年が経ち、賀忠もやはり亡くなります。
先妻との間に息子が3人いて、呂令人はその息子たちに分割して珠玉や財物を贈ります。自らは姉の家でともに住むようになります。
呂令人とその姉、彼女たちはいったい…
賀忠の子は寒食節の時に、父の墓参りをしたついでに、姉の家を訪ねます。姉は「妹はすでに臨平鎮に帰ってしまった」と言います。
翌年、賀忠の子は、再びその場所に行くと居所も建物も何もなく、ただ松林に2つの古い墓があるだけでした。
感想と考察
呂令人とその姉が住んでいたはずの屋敷はなく、松林に2つの墓があるだけだった。
これは呂令人とその姉の墓なのか?…という現実から、想像するに、もしかしたら、その姉妹は亡霊だったのかもしれません。
賀忠は、姉妹どちらとも関係をもっていましたが、亡霊との関わりであったと考えられます。
物語の最後では、賀忠もすでに亡くなっているので、その事実は知る由もないのです。
夢でありながらもふ~りんされていた賀忠の妻は少し気の毒ですが、家族で夢をみさせられていた賀忠一家に残された財宝を思うと、終わりよければすべて良しでしょうか。
なぜ呂令人とその姉は、亡霊となって、賀忠一家を振り回していたのか、その真相も気になりますが、呂長官というのが実在の人物かどうかもわかりません。
『宋代郡守通考』にも載っておらず、もしかしたら唐代の時代の人なのかもしれません。
史料の少ない宋代の時代。
逸話集の中から、当時の生活のヒントを見つけることができます。
「寒食節」という節句もそうですが、研究が進んでいない当時の女性の相続権などについても触れています。
しかし、逸話の中身もなかなか面白く、この『呂使君宅』はなんだか源氏物語を思わせます。