コロナ禍になって、早2年半。
親族の家ならともかく、友人の家を訪れる機会はめっきり減ったのではないでしょうか。
コロナ禍ではないけれど、訪問客が煩わしくなったのか、新聞に「急用以外は来ないでください」と広告を掲載したのは幸田露伴です。
目次
幸田露伴の生い立ち
幸田露伴は慶応3年7月23日に現在の東京都台東区で生まれました。
西暦ですと1867年8月22日。155年前の今日です。
現在の都立日比谷高校に在籍していた頃、教育者の狩野亨吉、小説家尾崎紅葉と同級生でした。
後に、「写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴」と並び称され明治文学の一時代を築き、尾崎紅葉・坪内逍遥・森鴎外と並んで「紅露逍鴎時代」と呼ばれることになります。
16歳で給費生として逓信省官立電信修技学校に入り、卒業後は官職である電信技士として北海道
その後、職を放棄して帰京しています。
この北海道から東京までの道程が『
小説家として
露伴は、膨大な読書量を背景に独自で創作をつづけます。
ただし、初期には、尾崎紅葉とともに井原西鶴を尊崇していたので、紅葉らの「文庫」に『
彼は、写実的短編よりも伝奇的長編を好み、平凡な市井人よりは、気骨ある偏僻の持ち主に心ひかれます。
明治24(1891)年、下谷区の谷中天王寺をモデルとする『五重塔』を発表、作家としての地位を確立します。
『五重塔』の十兵衛は、親切な先輩の源太の一切の助力を拒否し、あくまでも独力で塔を建立しようとする、自分を信じ、自我を貫くのです。この強烈な個性をみごとに描いています。
文壇の主流は、尾崎紅葉を中心とする硯友社の人々と、これに拮抗する幸田露伴に形成されていくのです。
講師になる
日清戦争の勝利後、社会においても文学においても、急速な近代化への発展が進みます。
小説では、露伴、紅葉という両大家の創作力にかげりがみえてきます。
露伴は明治41(1908)年に京都帝国大学文科大学初代学長である旧友狩野亨吉に請われて、国文学の講師となります。
内藤湖南って聞いたことある名前だわ。
御来訪御免下され
明治38(1905)年4月から6月にかけて、読売新聞に50回以上も「午前だけは親疎を問わず、急用のほか、ご来訪御免下され度懇願」と広告を掲載しました。
そういったエピソードから、はてなブロガーである山下泰平氏は、幸田露伴は明治時代のミニマリストではないかと考察されています。
岸部露伴は動かない
ドラマはNHKで第三期が12月に放送されるそうです。
飯豊まりえさん演じる泉京香は、泉鏡花から名前とってるよね?
偉そうにウンチク語った私は、実は『五重塔』は読んだことありません。
なので、とりあえずYouTubeでラジオドラマだけ聞いてみたのでした。
いや~、現代は便利だわ。