寛永16(1639)年、江戸幕府が「寛永十六年七月令」を布告し、ポルトガル船の入港を禁止します。
もし来航した場合は船を破壊し、乗組員は斬罪に処す…と。
経済事情で考えると、日本にとって南蛮貿易を失うことは痛手だったのでしょうけど。
「島原の乱」でのキリスト教の脅威を考え、そのバックにいるポルトガル人の宣教師を排除するためにやむを得ない措置だったのか。
1633年から出されている鎖国令ですが、この5番目の「寛永十六年七月令」こそ、本当の意味で鎖国令と呼べるものだという見解があります。
寛永16年7月5日に出されたこの第五次鎖国令とも呼ばれるこの法令で、江戸幕府による貿易管理が完成したわけですから。
384年前の今日です。
その後寛永18(1641)年の平戸オランダ商館の出島移転によって鎖国が整います。
将軍は3代徳川家光の時代です。
私が小学生の頃は、学校の授業で、「貿易にともなってキリスト教の布教が進んで、キリスト教徒が増えましたが、キリスト教の教えは幕府の身分制度に反するため、江戸幕府は外国との交際を制限したのです。」と教わりました。
本当にそうでしょうか。
歴史は研究によって、いろいろ考察され、見解も変わってきます。
小学生中学生のお子様に歴史を教える親御さんは、教科書を十分に確認してくださいね。
目次
5回の「鎖国令」
江戸時代初期の1630年代。
鎖国令は5回出されています。
そのうち重要なのは1回目と3回目と5回目。
受験生の方は、鎖国令はⅠ・Ⅲ・Ⅴ、1633年・1635年・1639年ということで、大事なのは「サコク」:3・5・9と覚えて、
と整理するとわかりやすいです。
「鎖国」の有無をめぐる議論
そもそも「鎖国」はあったのか?とう疑問が、最近ではよく議論されています。
江戸時代、外国との交易に制限がありました。
しかし「国を完全に閉じている」といったことではありません。
オランダ、イギリス、ポルトガル、スペインとは関係がありましたし、中国、アイヌ、琉球などと交易がありました。
それを「鎖国」と呼んでいいのか。
「鎖国」ではなく「
現在、学校では「士農工商」という言葉を教えないとブログで記したことがありました。
「鎖国」についても論争があります。
ただ言葉の問題ではなく、「海禁」であっても「鎖国」であっても、完全に国を閉ざしていたわけではないということ、ここが大事だと思うのです。私個人の意見です。
ケンペルの『鎖国論』
「鎖国」と言う言葉は、ケンペルの『日本誌』に出てきます。
【ラテン語】(原書1712年)Regnum Japoniae optima ratione,ab egressu civium,& exterarum gentium ingressu & communione,clausum
訳)最良の方法で自国民の出国と外国人の入国、交易を禁止して国を閉ざす日本
江戸時代、日本に戦争がなかった理由
「鎖国」は明治時代以降、否定的な評価を受けてきました。
しかし、ケンペルはちょっと違っていたようで。
当時、ヨーロッパはあちこちで常に戦争が起こっていました。
なのになぜ日本では戦争が起こっていないのか。平和なのか。
ケンペルは考察します。
それは日本が平和なのは必要以上に外国と付き合っていないからだ。
日本が自給自足が成り立つ国であるから、外国と付き合う必要がないから。
この考えが有益か否か。
「鎖国」という進歩がない状態に危機感を感じたからか、幕末には日本は開国へと進むわけです。
21世紀に生きる私たちは、やはり「鎖国」はネガティブなものとして捉えたくなります。
ポルトガルが追い出されたのが1639年で、オランダ人が平戸から出島に移されたのが1641年。
「鎖国の完成は何年ですか。」って問いにはなんて答えたらよいのでしょう?