暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

実家の母を介護するために北海道から引っ越してきました。その介護も終わり、片づけと大学通信教育部の勉強と猫と。そんな雑記ブログです。当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

栄養は世界を救う ~生命、食に在り~

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 小さな暮らしへ
にほんブログ村

現在は子供たちが当たり前のように食べる給食。

 

大好きだったメニューや苦手なおかず。

その給食の生みの親が「佐伯矩さいきただす」です。

佐伯矩は、明治生まれの医師であり栄養学者です。

現在では一般化している栄養の知識を広めたのが佐伯矩です。

今は国家資格となる「栄養士」という職業を作ったという功績もあります。

その佐伯が最も力を注いだのが「学校給食の普及」でした。

 

目次

 

消化酵素アスター

今から120年前の明治37(1904)年、富国強兵を掲げる日本がロシアと戦争を起こしたこの年、それまでの食材としての地位の低かった大根に消化酵素アスターゼが含まれていることが判明しました。

たくあんを始め古くから日本の食卓を支えてきた大根。

大根は粗末な野菜から有能な野菜へと昇格します。

日本の食生活を変えた化学の視点、その大発見をしたのが佐伯矩です。

 

「栄養学」という分野

佐伯は京都帝国大学で医学を学んだ後、東京の内務省で細菌学を研究した医者でしたが、「私は病気の後始末をする医者ではなく、病気にならない人間をつくる医者になる」を座右の銘にしていました。

アメリカの大学で「栄養の研究」に興味をもちます。

戦場ではなく、脚気という病気で命を落とした兵士がたくさんいた時代です。

 

www.betty0918.biz

 

栄養研究所設立

大正3(1914)年、佐伯は現在の東京都白金に私費で「栄養研究所」を創設します。

それは「栄養学」がまだ学問として確立されていなかった時代に、栄養に特化した世界初の研究所でした。

6年後には国立の研究所となり画期的な研究を次々と発表していきます。

 

毎日の献立

たとえば、日本人の主食である「米」の研究。当時日本人は1日に1人あたり5合も食べていたとか。おかずは漬け物だけだったり。

ぬかと胚芽がある「玄米」が栄養的に優れているとしても、「白米」より食べにくい。なので「七分つき米」が良いとつきとめます。

玄米の画像はphotoACのフリー素材画像より
■七分つき米■
七分つき米とは玄米の糠層(果皮、種皮から糊粉層までの層)と胚芽の部分を7割程度剥離した精米のことでお米に白さがあり、胚芽の栄養が一部残っています。

 

私の母は昭和40年代後半から「自然食」に目覚め、私は小学生の頃から結婚するまでずっと「七分つき米」を食べていました。黄色っぽいご飯はお弁当の時など、恥ずかしかったです。

 

佐伯の研究成果「(病気を予防できる)無洗七分つき米を推奨する」は、その取り組みにメディアも注目します。

大正11(1922)年朝日新聞では、佐伯と協力し「安くてうまいお献立」とし、毎日の献立を提案していきます。

調理法だけではなく、たんぱく質やカロリー、値段なども紹介していきます。

 

「脂質」の大切さ

昔は「しもやけ、あかぎれ、青ばな」の子供がたくさんいました。今はあまり見かけません。

なぜなら、それはビタミン欠乏症だったから。

脂溶性ビタミン(ビタミンA、D、E、K)が脂質とともに摂取すると体に吸収されやすいのは、現代ではよく知られています。

 

佐伯の推奨するそれまで日本人になじみのなかった「脂質」が多く含まれる献立は、日本の台所に「フライパン」を広めていきます。

こうして、ごはんだけでなく、おかずを食べる習慣が広まっていくのです。

 

学校給食の実現

佐伯が最も熱心に取り組んだのは、日本人の中でも次世代を担うべく国民である「子供」の栄養です。

栄養について気づかせてくれる社会を作るべく、学校給食を全国に広めていくのです。

まずは、凶作により米の値段が高騰していたため、カルシウムを摂るための小魚やビタミンが多い人参、甘い干しぶどうを加えた栄養満点のパンを東京都の小学校に配給します。

このパンでの給食を実験的に行ったわけですが、児童たちの栄養が改善したのです。

ただ食材の調達や設備などの面でなかなか実施することが難しかったのです。

 

しかし、大正12(1923)年に関東大震災が起こります。

東京は一時的に食糧難に陥ります。未曾有の災害は子供たちの栄養問題をさらに深刻にしました。

佐伯は「欠食児童の救済」を目的とした給食実施のために寄付金を募ります。

 

昭和6(1931)年に東北と北海道を襲った冷害(昭和農業恐慌)は、大凶作に見舞われた農家を苦しめます。児童の半分は欠食児童で、中には学校にすら通えない子も出ていたのです。

翌昭和7(1932)年、栄養学の専門家として、佐伯は政府(文部大臣)に「欠食児童解決の問題に関しての意見書」を提出し、全児童に給食を提供することを提案します。

佐伯の進言を受け、日本の学校給食が始まるのです。学校給食は貧困の救済ではなく、すべての子供の教育と発育のために必要であるという佐伯の思いが叶い、昭和7年には1,100校もの学校で給食が実施されました。翌年には12,300校に増えます。

各学校で栄養士が活躍します。

 

贅沢は敵だ」をスローガンにした太平洋戦争が終わったのが昭和20年。その年に「栄養士」が国家資格となります。その後、昭和22年学校給食が再開します。

アメリカの豊富な食材も手に入ります。

戦後短期間で、日本は戦争における飢餓から脱却します。限られた食べ物の中で国民のすべての栄養状態が改善した、こんな例は世界では他にありません。

このことで、優秀な人材が生まれ、日本は経済大国への道を歩むのです。

 

まとめ

学校給食では、先生も生徒もみんな同じ献立を食べることによって、農業や栄養学や食のマナーやそういった教育を知らずうちに子供は学んでいきます。

「人も国も食の上に立つ」

 

佐伯が作った「佐伯栄養専門学校」は今年創立100周年だそうです。

 

NHKBS「英雄たちの選択」で、番組としては珍しい、あまり知られていない人物である栄養学博士を扱っていたので、まとめさせていただきました。

 

 

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 小さな暮らしへ
にほんブログ村

 

日本の伝統食は「一汁三菜」ではありません。

「一汁三菜」が日本に出現したのは最近のこと。

www.betty0918.biz

 

実は日本の伝統食は、山盛りの白米と塩辛い漬け物だったのですね。

おかずが皆無の糖分と塩分だけの食卓、それは決して「健康的な食卓」ではないはず。