暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

実家の母を介護するために北海道から引っ越してきました。その介護も終わり、片づけと大学通信教育部の勉強と猫と。そんな雑記ブログです。当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

社会運動家として浪曲師として、宮崎滔天

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私が宮崎滔天みやざきとうてんの名を知ったのは、社会運動家としてではなく孫文を支援した人ではなく浪花節語りではなく。

NHK朝ドラ『花子とアン』で、花子の親友白蓮(伊藤伝右衛門の妻)逃避行の相手宮崎龍介の父親としてでした。

 

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目次

 

生い立ち

宮崎滔天肥後国玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)に生まれます。

荒尾宮崎家は1647年、宮崎弥次兵衛正之が荒尾村の有力武士の娘を嫁に迎えたことから定住したことに始まる名家です。上村希美雄監修『夢 翔ける 宮崎兄弟の世界へ』熊本出版文化会館より

熊本城~photoACのフリー素材画像より

兄の宮崎八郎は協同体のリーダーとして西南戦争で戦死しました。

 

大江義塾で

滔天は官立の熊本中学校になじめず、大江義塾に入学します。

塾の教育方針は極端な自由放任主義でした。

「先天的自由民権家」を自称する滔天にとって、大江義塾は「理想郷」に思えましたが、大江義塾を創立した徳富蘇峰を始め塾生たちが功名心や立身出世を願って自由民権を語っていることを知り失望します。

 

演説する力

民権家に演説は付きものでした。

演説は当時の最新メディアだったのです。

滔天はこの頃人前で話すのが苦手だったといいます。

徳冨蘇峰はその後ジャーナリストとして活躍しますが、記者には文章力だけでなく弁舌も要求されました。

滔天はそれを「芸人の事」と軽蔑していたのです。

 

辛亥革命支援者として

その後上京して滔天は東京専門学校(のち早稲田大学)に入学しますが、ここでも馴染めず、またその頃に信仰したキリスト教への思いもやがて揺らぎ、明治25年に上海に渡ります。

その後は中国革命のために献身的に活動することになるのです。

一旦はアジア主義運動に挫折し、自分を見つめ直す意図で浪曲師となりますが、革命の志を捨てたわけではなく、孫文らの辛亥革命を支援するのです。

亡くなる前年まで、大陸本土に度々渡航します。

亡くなったのは大正11(1922)年12月6日。

102年前の今日です。51歳。

腎臓病による尿毒合併症でした。

 

白蓮事件

浪曲師として博多講演をしていた時ご祝儀をくれたのは伊藤伝右衛門でした。

その伊藤伝右衛門の妻柳原白蓮が、滔天の息子龍介と駆け落ちしたのは滔天の亡くなる前年でした。

子供達に対して放任主義であった滔天は事件まで何も知らされず新聞を見て驚いたといいます。

 

参考文献⤵

 
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花子とアン』で白蓮(大正天皇の従妹)を演じられていたのは仲間由紀恵さん。

仲間さんの代表作であると思います。

きれいにまとめた花子の不倫より、泥臭ささえ感じる白蓮の不倫はドラマとしてとても面白かったです。