暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

実家の母を介護するために北海道から引っ越してきました。その介護も終わり、片づけと大学通信教育部の勉強と猫と。そんな雑記ブログです。当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。収益はすべて寄付しています。

小泉八雲と妻の軌跡

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NHK朝ドラ『ばけばけ』の主人公は小泉セツがモデルです。

世界に日本文学を広めた小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの妻です。

彼女は明治維新の直前、慶応4(1868)年に出雲松江藩の家臣小泉家の二女として生まれました。

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本日のブログには小泉八雲と妻セツについての考察がありますが、それが『ばけばけ』のこの先のネタバレになる可能性があります。

ご注意ください。

 

目次

 

ラフカディオ・ハーン

八雲ことラフカディオ・ハーンは、黒船来航と同じ嘉永3(1850)年にギリシャレフカダ島で生まれました。

父のチャールズ・ブッシュ・ヘルンは駐留するイギリス軍の軍医ですが、アイルランド系です。

当時、アイルランドはイギリスの植民地であり、出身者はイギリス帝国内で激しく差別される存在、先祖に文人や官僚がいる家系でも、その出自は消えない烙印でした。

母のローザ・カシマティはギリシャの下層階級出身で、アラブ人の家系だったとも伝わっています。

八雲は母を思慕し続け、母から受け継いだ「東洋の血」が後の日本への憧れの原型になったと、多くの研究者が指摘しています。

『ばけばけ』で八雲を演じるトミー・バストウさんの曾祖父がアイルランドのメイヨー州出身で、彼はアイルランド人の血をひいているそうです。『SHOGUN将軍』にも出演され「ニホンダイスキ」というトミーさん、八雲にぴったりじゃないですか。

 

ラフカディオ・ハーン、日本で暮らす

アメリカで新聞記者をしていたラフカディオ・ハーンが40歳を目前に日本に来たのは、明治23(1890)年。

雑誌社から、日本に渡り旅行記を書くという仕事が舞い込んだのです。

もともと日本贔屓の八雲はこの話に飛びつき、訪日してからますます日本が好きになります。

9月、八雲は島根県尋常中学校の英語教師になります。

 

あこがれ続けた神話の国「出雲」で、ラフカディオ・ハーンは着物を着て暮らします。

彼が暮らした昔ながらの日本家屋は現存しています。

 

セツ、小泉八雲の妻となる

松江藩士の娘セツは、松江でひとり暮らしをするラフカディオ・ハーンの世話係になります。

『ばけばけ』で詳しく、お金について説明していました。

彼の身の回りの世話をする女中の給金は20円。

ドラマの中で、それと比較するようにお金の描写があります。

しじみは1合2銭、むき身が4銭、花田旅館で働く女中の月収は90銭、新米教師の月収は4円です。

当時の1円はおおよそ現在の3~4万円程度。

セツの給料「20円」は、およそ月収70~80万円。年収で1000万円近い金額になるので、当時の女性にとっては破格の給料だと思います。

 

セツは物語が好きでした。

セツの語る物語がとても上手で、ラフカディオ・ハーンは魅せられていきます。

やがてふたりは結婚。

ラフカディオ・ハーンの「小泉八雲」という名は古事記スサノオが結婚した時に詠んだ歌によります。

八雲立つ 出雲八重垣

妻籠みに 八重垣作る

その八重垣を 

by 『古事記

 

小泉夫妻、松江を離れる

八雲にとって、松江は理想郷でした。

しかし、家族のためにより条件のよい仕事を得るために、1年3か月の松江での暮らしに終止符を打ち、明治24(1891)年に妻と共に熊本市へ旅立ちます。

熊本市は松江と対照的に、急激に発展した街です。

小泉夫妻が熊本に移住する15年前の1876年には、徳富蘇峰熊本洋学校の若者たちが「熊本バンド」を結成するくらい、熊本は早くから新しい空気が沸き起こっていた活気ある街だったのです。

先週から「ばけばけ」に登場している柄本時生さん、大河ドラマ『八重の桜』では「熊本バンド」の中心人物金森通倫役でした。

「熊本バンド」についてはいずれまたゆっくりとブログにしたいです。

 

八雲は熊本の風情を嘆き悲しむ手紙を友人に送っています。

熊本には檜造りの神棚を売っている店がありませんし

家の戸口には

しめ縄やお札も護符も見当たりません

明治24年11月26日小泉八雲チェンバレン宛書簡』

 

書簡の日付は明治24(1891)年11月26日。

135年前の今日ですね。

 

東京での生活

熊本に滞在していたのは3年。

小泉夫妻はその後熊本から外国人居留地のある神戸へ、そして東京へと居を移します。

八雲は明治29(1896)年、東京帝国大学の英文学講師になります。

現代の東京大学

八雲は東京帝国大学の優秀な学生たちに評判がよかった。

八雲の授業は学生が潜在的に持っていた能力を活性化するチャンスを与えていた。

にもかかわらず、八雲は明治36(1903)年東京帝国大学では契約が更新されないと告げられます。

なぜなら、八雲の給料は高すぎたから。

大学総長の年収が3,500円だったのに対し、八雲の年収は4,800円(=今でいう1億円近い)でした。

大学側としては、英国留学から帰国する夏目漱石を後任に据えたかったのです。

八雲を慕う英文科の学生たちの熱望により、大学側は契約終了を撤回しますが、結局八雲は大学を辞めました。

結果論ですが、大学を辞めたおかげで八雲は創作に力を入れることにより世の中にたくさんの作品を残せることになったのです。

 

余談ですが、その後東京帝国大学で教鞭をとることになった夏目漱石は、学生の藤村操を死に追いやることになってしまいます。

漱石が後年神経衰弱になったのは、その事件が原因だといわれています。

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八雲の作品創作の影には、日本の物語を妻セツが自分の言葉で八雲に語ったという功績があります。

八雲が執筆した『怪談』は夫婦の共著ともいえるかもしれません。

 

NHK朝ドラ、前作の『あんぱん』もすごく面白かったのですが、『ばけばけ』もそれに負けないくらいに面白いですよ。