コロナ禍、私はてっきり北里柴三郎についてもブログにしたのだと勘違いしていました。
ブログに何度か登場しましたが、北里柴三郎について深く考察したブログはありませんでした。
今日のブログでは北里柴三郎について語らせてください。
1000円札の顔です。
目次
医学への道
時は幕末。武士の時代が終わろうとしていた頃。
後に「世界の北里」と呼ばれるようになった北里柴三郎は嘉永5年12月20日に熊本県小国町で生まれました。
西暦ですと1853年1月29日。
172年前の今日です。
家は代々続く庄屋でした。
柴三郎の夢は「武士になること」でした。
同じく10000円札の顔である渋沢栄一も似たようなことを言ってたような?
柴三郎が5歳の時、感染症コレラで弟ふたりが亡くなりました。さらに妹も亡くします。
当時大流行していたコレラは江戸で猛威をふるい10万人もの人が亡くなったと言われています。
18歳になった柴三郎は父に「熊本の医学校で学べ」と命じられます。
マンスフェルトとの出会い
しぶしぶ藩立の西洋医学所で学ぶ柴三郎にオランダ人医師のマンスフェルトが声をかけられ、貸し与えられた高価な顕微鏡で細菌の存在を知ります。
マンスフェルトは柴三郎を町に連れ出し、熊本に「辻便所」がないことを指摘します。
当時は道端で用を足す人も多かったのです。
感染症患者の便には病原菌が潜んでいる。それがばら撒かれないように辻便所(公衆トイレ)を作るべきだと言うのです。

感染症から人々の命を守るには清潔な環境が必要であると。
柴三郎はマンスフェルトから公衆衛生という病気の予防法を教わり、医学の勉強に目覚めます。
広がる感染症
1874年、柴三郎は23歳で東京医学校(現東京大学医学部)に入学します。
その在学中にもコレラは大流行します。
感染者は16万人、死者11万人。
開国した影響で、コレラだけではなく日本は海外からの様々な感染症に苦しみます。
1880年代~1890年代の感染症志望者数は
コレラ 約24万人
赤痢 約26万人
腸チフス 約15万人
結核 約85万人
公衆衛生の道へ
柴三郎は大学卒業後は病院に勤務するのではなく、内務省衛生局に就職する道を選びます。
衛生局で細菌の研究をするのです。
当時東京大学医学部を卒業すると即地方病院の院長になれました。年収にすると現在の価値で4,800万円。
しかし衛生局での初任給は70円。年収ですと840円。現在の価値で1,680万円です。
柴三郎は東大同級生の3分の1の年収しかなかったの?
それでも1880年代ですと一般的な医者の年収は288万円~1,080万円ですから、それよりはずっといいわけです。
内務省の局長は長与専齋でした。
留学中の活躍
明治18(1885)年に柴三郎はコッホのいるドイツのベルリン大学に留学します。
研究熱心な柴三郎は世界で初めて破傷風菌だけを取り出す「破傷風菌純粋培養法」に成功しました。
さらにうさぎの実験から「血清療法」という菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発したのです。
血清は血液の上澄み液です。

この療法は、異物を侵入させると体内で抗体ができるという現在の免疫医療の基礎となったわけです。
福沢諭吉との関係
世界に名をとどろかせたものの、6年の留学を終了させ、柴三郎は日本に帰ります。
しかし帰国後半年間は仕事ももらえず活躍の場はありませんでした。
福沢諭吉に結核専門の病院を作ってもらい(1890年代結核で年間5~6万人が亡くなっていました)感染症対策に励みます。
私たちがコロナで常識となった「三密」や「飛沫」の危険さを説き、煮沸消毒など、「清潔」の大切さを訴えました。
柴三郎は晩年北里研究所(志賀潔や野口英世を輩出)を設立しますが、その当時の年収は3,200万円。
使い道は医療機関への寄付と被災者支援だったそうです。
1917年には福沢諭吉が設立した慶応義塾大学の初代医学科長になりますが、福沢諭吉への恩を返すために、無給だったそうです。
ペスト
世界でペストが流行れば現地に出向き研究し、世界初「ペスト菌」を発見し治療用の「血清」を開発しました。
1897年、日本初の「伝染病予防法」が成立。
これを機に患者の「隔離」や外国船の「検疫」、上下水道の整備が行われるようになりました。
その8年後に大阪でペストが発生した時は、🐭ねずみが原因(正確にはねずみについたノミ)であることをつきとめ、「猫隊」を作りねずみを退治することでペスト流行を防ぎました。

1927年以来、およそ100年日本国内でのペスト感染例は報告がありません。
史料によっては1926年だったり1929年だったり。
今の日本人の健康に北里柴三郎は大きく貢献しています。
1000円札を見る時は拝みたいと思います。

