暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

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新島八重と「徳富兄弟!」

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明治20(1887)年。

この頃若者の間では小説が流行の兆しをみせていました。

近代文学の夜明けです。

 

この時期に「平民主義」を唱える徳富蘇峰は、『将来之日本』が好調で、花形の言論人でした。

同志社文学雑誌』には弟の徳富蘆花の小説も載せ、兄弟で文才に優れていたことがわかります。

徳富蘇峰は民友社にて日本発の総合雑誌『国民之友』を創刊し、明治のジャーナリズムを牽引する存在へと成長します。

 

徳富蘇峰同志社時代に、新島襄に大きく影響を受けたのは有名です。

『将来乃日本』の序文を新島襄に依頼していますが、明治20年2月2日付の手紙で、新島襄は種々の事情を説明して婉曲に断りを述べています。

参考文献⤵

https://www.doshisha.ac.jp/attach/page/OFFICIAL-PAGE-JA-308/139978/file/96TokutomiSoho.pdf

 

新島襄の妻が新島八重です。

2013年大河ドラマ『八重の桜』の主人公で有名です。

 

目次

 

新島八重

会津藩の砲術師範の娘であった八重は、会津戦争時には、断髪男装して砲術をもって奉仕し、鶴ヶ城籠城戦では自らもスペンサー銃と刀を持って奮戦しますが、会津藩は新政府軍に敗れます。

若松城、別名鶴ヶ城

八重は京都府顧問となっていた兄の覚馬を頼って上洛。

アメリカ帰りの宣教師新島襄を紹介され、洗礼を受けて結婚するのです。

譲からは心の綺麗な「ハンサムウーマン」と評されますが、その譲が創立した同志社英学校の生徒からは「師である新島を尻に敷く悪妻」と酷評されます。

明治23(1890)年の新島襄の臨終には、妻の八重と共に徳富蘇峰が立ち会いました。

 

八重は、新島譲亡き後も京都に住み続け、日本赤十字社の社員となり日清・日露戦時には篤志看護婦として傷病兵看護にあたり、「日本のナイチンゲール」と呼ばれます。

また、同じ頃、円能斎(裏千家家元)に入門、茶名「新島宗竹」を授かり女性に茶道を広めた1人に数えられます。

画像はイメージです

動乱の時代を勇猛果敢に生き抜いた八重は京都・新島旧邸にて86歳で逝去します。

昭和7(1932)年6月14日、93年前の今日です。

 

参考文献⤵

http://www.soho-tokutomi.or.jp/asset/00032/pdf/tenji25.pdf

 

徳富蘇峰

徳富蘇峰肥後藩郷士の子で、熊本用学校に学び、同志社英学校に移り、新島襄と出会いますが、退学。

熊本に戻り大江義塾を設立します。

『将来乃日本』(1886)で好評を得て上京し、民友社を創設します。

『国民乃友』『国民新聞』を発刊し平民主義を唱えるのですが、その後国権主義へと転換するのです。

 

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徳富蘆花

蘇峰の弟徳富蘆花は少年時に同志社に入学、洗礼を受けるも中退し、兄の経営する民友社に入ります。

明治31(1898)年から国民新聞に連載した『不如帰』は明治屈指のベストセラーとなります。

国家主義的傾向を強める兄とは次第に不仲となり、1903年に蘇峰への「告別の辞」を発表し、民友社を離れるのです。

 

大河ドラマ『八重の桜』では、徳富蘆花と久栄(新島八重の姪)との間の禁じられた苦恋が描かれますが、それは小説『黒い眼と茶色の目』のモデルとなります。

そして最終回にて、遼東半島返還に怒りを露わにしている蘇峰の姿を横目で見ながら、蘆花は『不如帰』を書き始めるのです。

http://xn--jacar-4s4p.archives.go.jp/das/meta/A03020190800

 

 

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2013年大河ドラマ『八重の桜』で徳富蘆花を演じたのが仲野太賀さん。

大河ドラマでは『いだてん』での小松勝(山下勝がモデル?)もすごくよかった。

 

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来年の大河ドラマでの主人公豊臣秀長にも期待します。