今年も残すところあとわずか。
昨日で仕事納めの方も多いでしょう。
普段忙しい方は、今日から新年のための準備ですね。
そんな暮れも押し迫った中、歴史好きを喜ばせるニュースが飛び込んできました。
なんと、奈良時代の遣唐使吉備真備の筆跡が中国で発見されたことが26日わかりました。
今日はそのニュースに絡み、吉備真備についてお話したいと思います。
目次
中国で見つかった吉備真備の筆跡
奈良時代の高級官僚で政権中枢で政務を執り、2度も遣唐使として唐に渡った吉備真備(きびのまきび)が筆をとったとみられる墓誌(ぼし)(死者の簡単な伝記)が、中国国内でみつかった。所蔵する博物館などが25日、北京で発表した。8世紀前半に真備が留学生として中国滞在中に書かれた可能性が高く、真備の書とすれば国内外で初めて確認されたことになる。中国人の墓誌の銘文を日本人が書いたことが確認されたのも初めて。これまで真備の留学生活を探る文献史料は乏しく、古代東アジア関係の実像を伝える貴重な史料として注目される。
朝日新聞デジタルより引用
墓誌は深圳望野博物館が2013年に入手したもの。
墓誌とは墓石の傍らに建てる石碑のこと。
末尾に「日本国朝臣備書」と記されているのです。
これが吉備真備のことではないかと思われます。
吉備 真備(きび の まきび)は、奈良時代の公卿・学者。元の名は下道 真備(しもつみち の まきび)。姓は下道朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・
右大臣。勲等は勲二等。
と記されています。
まさに「日本国朝臣備」ですね。
吉備真備っていつの時代の人?
吉備真備(きびのまきび)はいつの時代の人なのか、何をした人なのか、ご存じでしょうか。
身分の高い人ではありません。
でもとにかく天才的に頭が良かった。
そんな才能をかわれて、遣唐使になったのです。
遣唐使ですから、時代としては奈良時代に活躍した学者(役人?)です。
695年(持統天皇の時代)に生まれ、775年80歳で亡くなっています。当時としてはかなり長生きです。
平安京を見ることなく亡くなりましたから、まさに平城の時代を駆け抜けた人でした。
遣唐使として活躍した吉備真備
17年もの間唐に滞在し734年に帰国します。(この時の帰国船が唐から天然痘を持ち帰ってしまい、日本では天然痘が流行してしまったという説あり💦)
阿倍仲麻呂は願い叶わず、その生涯を唐の都長安で過ごすことになったのです。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる
三笠の山に いでし月かも
夜空を遠くあおいで眺めると、きれいな月が出ている。
あの月は奈良の三笠山にのぼるのと同じ月だろうか。
阿倍仲麻呂が故郷日本に思いをはせて詠んだ歌です。
吉備真備の遣唐使からの帰国後の活躍
頭脳明晰な上に唐の文化や事情に詳しい吉備真備。
聖武天皇に寵愛され、橘諸兄に頼りにされ、僧の玄昉(げんぼう)とともにとんとん拍子で出世をしました。
藤原広嗣(ひろつぐ)に嫉妬されてあらぬ中傷で密告されても、敵対関係にあった藤原仲麻呂(なかまろ)に疎まれて左遷されても、不死鳥のごとく這い上がり、学者でありながら兵法にも才能があった吉備真備は、この時代に数多くあった反乱でも活躍します。
称徳天皇の時代では、このブログでも何度か紹介させていただいている怪しげな坊さん道鏡(どうきょう)が権力をふるうようになりますが、そこも上手く生き抜き(忖度してた?)吉備真備は766年に右大臣にまで昇りつめます。
尾上菊之助 さ~ん、映像化することあったら道鏡を演じてみてください!あ、今TBSでフランス料理作ってたっけ?
頭脳ハ身ヲタスク
吉備真備は、ドロドロの奈良時代にありながら、低い身分から着実に出世をしました。
それは頭脳明晰に加え、唐の留学時代の豊富な経験と知識、そして軍事参謀における才能のおかげでした。
学者でありながら、右大臣にまで昇進した人物は吉備真備と菅原道真のみです。
2回の唐への留学が、うまい具合に奈良時代の争いごとに巻き込まれなかったのかもしれません。
才能以外に運にも恵まれたということでしょうか。
これほどの人材が現代にいたのなら、どんな政治を行っていたのでしょうか。
おまけ~生後2か月のネコ子ちゃん
大好評(?)ネコ子ちゃんの5年前シリーズです。
500㎖のペットボトルより小さかったネコ子ちゃん。
可愛かった~
でもこの頃ってブログをやってなかったせいもあり、あまり写真撮ってないんですよ😓