1969年1月18日、東京大学に立てこもる学生排除を目的とする機動隊が突撃。
54年前の今日です。
この事件の影響により、1969年の入試は中止となり、次年度の入学者が0人という事態になりました。
目次
医学部学生の「インターン制度」がはじまりだった
東大紛争の発端はその前年。
東大医学部学生による「インターン制度」への反発でした。
当時医学部学生は卒業後無給で研修医として1年間働かなければ国家資格である医師資格試験を受験できないという制度でした。
医学部学生は、自主カリキュラムを作り自主研修協約を東大医学部付属病院に提出するも大学側がこれを拒否。
そこで医学部学生自治会は無期限ストライキを決行し、これが終結する翌年1月19日まで続く、長い大学封鎖の事態を招きました。
キャラメルママ登場
学生たちは安田講堂を占拠します。
学生たちの過激な行動を阻止しようと、父兄らも立ち上がります。
いわゆるキャラメルママです。
1月18日~19日
安田講堂占拠は7か月にも及びます。
そして1月18日。
安田講堂への封鎖解除を試みるも、強固なバリケードと上部階からの火炎瓶や投石、ガソリンや硫酸といった劇物の散布など、学生の予想以上の抵抗がありました。
1月20日、佐藤栄作首相が大学を視察、その年の入学試験の中止が決定します。
この決定に、大学を守るために機動隊導入を決行した加藤一郎東京大学総長(事件当時は代行)は呆然とします。
加藤一郎総長は、その後運動に参加した学生たちに条件を付けずに大学復帰を認めます。
彼らのその後
逮捕者総勢337名。
学生たちの多くが逮捕されたということもあり、その後口をつぐんでいる当事者たちは多かった。
しかし、NHKアナザーストーリーズ「東大安田講堂事件~あのとき学生は何と闘ったのか~」に出演された方たちがいました。
学生たちの中心、田尾陽一氏は当時東大理学部大学院生でした。
運動後、大学には戻りませんでした。
物理学研究者、IT企業の経営など多岐の活動の後、現在は福島で放射線からの再生をめざす飯舘「NPOふくしま再生の会」を結成し、活動中。
警察の発表では、検挙者633人中、東大生はわずか38人だったといいます。
東大以外の学生が応戦しており、これは当時の権力に不満を抱えていた学生の多さと東大紛争の影響がいかに大きかったかを表していると言えます。
武闘派の多い明治大学生が守った工学部列品館。その防衛隊長を務めたのは瀧澤征宏氏。
テレビで「(攻防戦では)目立つことをコンセプトにしていました。」と答えていた瀧澤氏。後に広告代理店のプロデューサーとして多忙を極める活躍したのも頷けます。
そして学生たちだけでなく、当時七機隊長として、安田講堂に突入した池田勉警視もインタビューに応じられていました。
皮肉にも池田勉警視も東大卒のキャリア警視で、部隊を率いたのです。
NHKアナザーストーリーズでエンディングで流れた曲は、サイモン&ガーファンクルの「The Sound of Silence」
心に響く優しい調べ。
気持ちがタイムスリップします。