1970年代、日本赤軍は革命を掲げ、世界各地で事件を起こしました。
中でも日本の警察が屈辱を味わったのは、クアラルンプール大使館占拠事件とダッカのハイジャック事件。
いずれも人質を盾に仲間の釈放(すでに逮捕されている日本赤軍のメンバー)と巨額の身代金を要求されました。
NHK『未解決事件』では前編後編と2週にわたり、「日本赤軍VS日本警察」と題し、1970年代の事件を中心に、日本赤軍の重信房子と警察官僚の國松孝次氏の話を交えながら、考察していました。
後編は日本警察が懸命の努力でメンバーを追跡し逮捕に至るまでのドキュメンタリーでしたが、私は興味のあった前編だけをまとめてみました。
目次
学生運動の背景
1960年代後半、ベトナム銭背負うが激化の一途をたどり、また日米安全保障条約の阻止・廃棄を目指す動きに伴い、学生によるベトナム反戦運動・第二次反安保闘争が活性化しました。
高度経済成長の中、大学生は授業料値上げ反対や学園民主化などを求め、大学紛争が起こったのです。
対立は激化の一途をたどります。
そのピークが昭和44(1969)年の東大安田講堂事件です。

そんな中、重信房子は大手企業で働きながら、明治大学の夜学に通っていました。
教員を目指していたのです。
デモに普通に参加し、「救援」という立場で運動に参加していました。
当時警察庁警備局に勤務していた亀井静香氏は「当時、俺は彼らに対するある意味での共感を持ちながら取り締まっていた。当時の極左というのは激しい信念を持ってやっていた。それと対抗するのは容易じゃなかった。日本をよくしようという彼らの気持ちはわかる。」と語ります。
日本赤軍、重信房子
学生運動の中で一部の若者が精鋭化していきます。
赤軍派が結成されたのは、東大安田講堂事件の数か月後1969年9月。
その中のひとりが重信房子。
彼女は30年に及ぶ国内国外逃亡を経て、2000年11月8日に逮捕され有罪となり、懲役20年の判決を受けました。
2022年5月28日に任期満了で出所しており、今回『未解決事件』に出演、自分の言葉で語っています。
現在80歳の重信房子は「合法か非合法かという国家権力の範囲を超えて革命がある。だからそれを実現するためには非合法になることもある。で、実際に革命は起こると思っていました。一番考えているのは差別のない平等社会。現実的なところではそう考えていました。」と当時を振り返ります。
学生運動に没頭する中で赤軍派に入ったのは「戦後の反省の上に民主主義を育てようとかそういう流れの中でそれ自身がまやかしではないのか。アメリカの支配のもとに置かれているそれを突破するためには戦う革命しかない。」と思ったから。
それに反するように、國松孝次元警察庁長官は「その行為がどんなに向こう側(日本赤軍)にとって大義かどうか知りませんけど、日本の法令に照らして違法行為であればそれは取り締まる」とバッサリ。そりゃそうだ。
彼らの運動(?)革命(?)は世界へ
1972年2月に連合赤軍が起こした「あさま山荘事件」は私世代なら記憶に残っているでしょう。
銃撃戦で亡くなった警察官のひとりは國松孝次氏が親しくしていた同僚でした。
「あさま山荘事件」の後、赤軍派内での仲間割れによる事件が発覚、若者たちへの共感は急速に失われました。
しかし赤軍派の行動は日本だけにおさまらなかったのです。
テルアビブ空港事件
その3か月後、1972年5月30日イスラエル テルアビブ空港で3人の日本人が銃を乱射するという事件を起こし多数の犠牲者が出ます。
実行犯のうち、元京都大学の学生ふたりは亡くなり(自決?爆死?)鹿児島大学の学生は逮捕され「日本の赤軍」と名乗ったのです。
イスラエルは周辺のアラブ諸国と揉めていましたが、全く関係のない日本人が事件を起こしたことに驚愕するのですが、逮捕されが学生は「警告しておく。赤軍兵士は常にどこでもブルジョア側に立つ人間は殺戮すると。」と高らかに宣言。
しかし「無抵抗の人を殺したのは悪かった」と反省の弁も。
実行犯の3人はパレスチナのゲリラと繋がっていましたが、その指示は重信房子と関係していました。
重信房子は偽装結婚により名字を変え国外に脱出し、レバノンを活動の拠点としていたのです。
こうして重信はパレスチナの解放運動(PFLP)に関わっていき、レバノンに活動家が終結します。
ただ、テルアビブ空港の事件は重信は知らされていなかったらしい。
PFLPとともに活動を行う
1973年7月20日、ドバイでPFLPと「アラブ赤軍」を名乗る日本人が旅客機をハイジャックします。
1974年にはシンガポールで石油施設を爆破します。
重信らは「世界革命」に身を投じていたのです。
PFLPから独立して「日本赤軍」を結成し、重信が最高幹部となり革命を目指していきます。
クアラルンプール事件

1975年8月4日、マレーシアの首都クアラルンプール。
日本赤軍の5人のメンバーがアメリカおよびスウェーデン大使館を占拠し、53人を人質にとります。
階下の日本大使館は占拠しないことが重要な作戦だったという。
要求は日本で収監されている仲間の解放。
国際関係も考慮し、三木武夫首相は人質の安全を最優先するとし、犯人側の要求をすべて受け入れることを決断、法治国家の根幹に関わる超法規則的措置でした。
収監中の5人の活動家が日本からクアラルンプールへと解放されます。
解放された5人の中にはあさま山荘事件の犯人もいました。彼は今なお国際手配されており、生存すらわかっていません。
バングラデッシュのダッカ事件

1977年、日本航空472便、南回りヨーロッパ線がバンコクに向けて出発した後ハイジャックされました。
日本赤軍が機内の乗客乗員151人を人質にとり、現金600万ドル(16億円)と9人の仲間の解放を要求しました。
9人の仲間の解放…としながらも、うち2人は日本赤軍と関係のない殺人犯というのが解せない。
5人の実行犯のうち3人は、クアラルンプール事件で解放されたメンバーでした。
当時の福田赳夫首相(91代内閣総理大臣福田康夫氏のパパ)は日本赤軍の要求を呑むことを苦渋の決断をします。
「人命は地球より重い」との言葉とともに。
釈放を拒否した1人をのぞき、6人が釈放されます。
人質もまた一人残らず解放されます。
この日本の対応は世界各国からは批判を浴びることとなります。「テロリストの要求に応じるべきではない」
人命は地球より重い
後日談にはなりますが、重信房子が言うには、ダッカでのハイジャックの際に機内でアンケートを配ったら「こんなことをやっても革命に利益にはらない」などと批判を受けたのです。
「我々は人民性ある戦い、人々のために」の思いで戦っているつもりではありますが、事件後仲間内で「武装闘争のあり方」について疑問が沸き「”人命は地球より重い”というべきは私たちなんじゃないか、それを権力の側に言わせてしまっている。」との結論が出て、それ以降武装闘争は沈静化していきます。
重信を若い頃から見ているという國松孝次氏は現在88歳。
「あの子(重信房子)が最高指導者になっている。重信房子は
日本警察は30年をかけてメンバー12人を逮捕、今も7人が国際手配となっています。

