宣教師は徳川家康を歴代で最も裕福だと記しました。
その秘密は家康誕生の直前に始まった日本各地で金銀が湧き出す奇跡でした。
とくに「銀」は世界産出量の3分の1を占めたともいわれます。
徳川家康が生まれたのは天文11年12月26日。西暦ですと1543年1月31日。
481年前の今日です。
その時代、日本経済が急激に成長したのです。
本日放送のNHKBS「英雄たちの選択」で徳川家康が金銀王へとなっていく道筋について放送されていましたので、まとめてみました。
歴史の裏にお金あり。
目次
金銀で読み解く戦国ニッポン
貧しい農業国日本が大きく変わったのは戦国時代後半。
日本には、それまで農業以外に産業がなかったのです。
しかし、日本各地で金銀が湧き出した。
シルバーラッシュ、ゴールドラッシュの時代です。
それを求めて大名たちは争い、海外からも銀を求める勢力が来航しました。
大名たちは金銀を求めて鉱山を奪い合い、日本の銀を求めて西洋人は鉄砲や火薬の原料である硝石、生糸などを持ち込むようになりました。
その金銀をめぐる争い、最終勝者は徳川家康でした。
石見銀山をめぐる争い
金銀が湧き出す日本。
そのきっかけは、家康が生まれる15年前、博多の貿易商人
日本は世界有数の銀産出国となったのです。
それを小笠原氏が奪い取る。
それをまた大内氏が奪還。
そこへ尼子氏が進出し、そうかと思えば今度は毛利元就が大内領に進出し石見銀山を手に入れるのです。
南蛮貿易の始まり
その頃ポルトガル人が来日し、鉄砲をもたらしました。
ご存じ1543年に種子島にやってきたポルトガル人ですね。以後(15)よさ(43)んか、鉄砲伝来。
これは偶然ではありません。
銀を手に入れるための商品が鉄砲だったのです。
南蛮貿易の始まりです。
義元と信玄と家康
徳川家康は今川義元のもとで人質として生活していた頃、義元は軍資金として金貨を作っていました。
桶狭間の戦いで今川義元が敗れたどさくさに紛れて、岡崎城に入城し大名となった家康。
ほかの大名に対抗する力をつけようと、家康も金銀を探し求めるようになりました。
家康の天敵である武田信玄は、家康に対して全勝していますが、その信玄の戦闘力を支えたのは「金」でした。甲州金を蓄えていました。
武田氏は武功をあげた家臣に「金」を与えることによって強くなっていったのです。
武田氏が信玄亡き後滅び、その武田氏を滅ぼした織田信長も本能寺の変で亡くなり、領主不在となった甲斐の国に入った家康は甲斐の金山を手中にします。
しかし豊臣秀吉に関東への国替えを命じられると、家康は甲斐の金山を手放すことになります。
家康の新たな領地である関東にめぼしい金山はなかった。鉱山不毛地帯だったのです。
豊臣秀吉
金銀があれば潤う。
大名たちはこぞって金銀を採掘します。
それを利用したのが豊臣秀吉。金銀鉱山を自分の直営化にしていきます。
金銀の力で天下人としての地位を不動のものにしたのです。
権力の正当性がほとんどない秀吉は、恩賞を与えるために金銀財宝を蓄える必要があったのです。
徳川家康と金銀
それ以外、長年憧れてきた日本あちこちの金山銀山の鉱山も手に入れます。
それに飽き足らず、採掘量を増やそうと、スペインの最新発掘技術を手に入れようとした家康ですが。
キリスト教布教を足掛かりに世界征服を企む国、スペイン。
スペインは宣教師を置くことによってキリシタンを広め、そこへ軍を送り込み、日本の領土を我が物にしようとしているわけで。えぇ、銀の獲得と日本への侵略をもくろでいるのです。
家康はそのスペインを「我が国は神の国。キリスト教とは無縁である。」と拒絶します。
オランダの忠告を聞き入れ、スペインではなくオランダから生糸などの商品を手に入れるようになります。
大坂夏の陣で豊臣を滅亡させるついでに「金」も手に入れました。
秀吉が大坂城に大量に蓄えていた「金」を奪うことに成功しました。
そんなに「金」「銀」集めてどうするの?
金銀を集めまくった徳川家康。
家康は、金貨や銀貨の製造を始めます。
幕府が発行し日本中で流通する徳川の貨幣を作りだしました。
こうして商品経済が発展していきます。
1年のドラマでは描き切れなかった物語がたくさんたくさん。
戦国時代はやっぱりおもしろい。