私が高校卒業後の進路を考えていた時代。
その頃には多くの女子大や短大に「家政学部」がありました。
私は家庭科が苦手だったので、そちらは選択肢にはありませんでしたが。
現在は家政学部といえば栄養学であったり幼児教育であったりと、私がまさに興味ありそうな学問を学ぶ場でしょうか。
「家政学」はかっては家庭を治めるための学問、良妻賢母を育てるための学問と考えられていました。
しかし、明治以降、日本の家政学が目指したのは生活の中の諸現象を科学的に研究することでした。
家政学の一領域、家庭管理の分野で、家庭管理を「人類の共存上の活動に関する社会科学」と極めて広義に解釈した家政学者がいました。
目次
井上秀
2015年の朝ドラ『あさが来た』で吉岡里帆さんが演じた田村宜は、井上秀がモデルでした。
『あさが来た』の主人公のモデル広岡浅子の勧めにより日本女子大学校の第1期生として入学。
留学や母校の教授を経て、第4代校長となります。
日本女子大学の同窓会幹事長として、託児所の開設や職業を持つ女性のための集合住宅などに大きく貢献し、昭和38(1963)年7月19日に88歳で永眠します。
61年前の今日です。
家政学者
井上秀が家政学者としての活動を展開した明治後期以降、日本では生活の改善や住宅の改良が社会の重要なテーマとなり、その大きなうねりの中で「生活を科学する」家政学者は大きな役割を担ったのです。
仕事と家庭の両立に適した家
3児の母でもあった井上秀は、仕事と家庭を両立させていました。
アメリカ留学から帰国後、明治43年に自邸を建設します。
自分の家ははじめから洋館に致しました。(中略)下は全部洋風で応接間書斎食堂その他で七間、二間も全部洋風にと考えましたが田舎から老人などの参りました節のためにと七間のうち二間程日本間に致しましたが、今では全部洋風にしても差し支えなくなりました。(中略)主婦のつとめを致しながら社会のためにも働くことができますのは洋館であるためだと信じて居ります。洋館は活動に便利なばかりでなく戸締りも簡便でそして盗難の用心もよろしうございます。
「桜楓新報」大正9年1月9日号より
明治時代の住宅改良
井上秀は「アメリカで学びとった科学的な生活法を日本人の生活に当てはめることから着手しようとまず住居の改造に留意した」と述べています。
明治以降、中流層の住宅の問題点は、結局のところ、接客を重視し、家族の生活を軽視していること、各室のプライバシーが欠如していること、床面を生活面にすることに起因する不潔さと不便さでした。
目指すは、椅子座化による住宅の洋風化でした。
住宅の理想と現実
井上秀は大正9(1920)年の桜楓会横浜支部の講演の中で、「婦人こそ率先して生活改善に努力しなければならない」と力説しています。
しかし、戦前において、生活の全てを椅子座で営む洋風住宅に住むことを好みかつ実践したのは限られた一部の人たちだけでした。
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私の実家は昭和の終わりに建てられましたが、6つあった部屋のうち、4部屋が和室、2部屋が洋室でした。
和洋折衷の住宅は、戦後も今日に至るまで長く続いています。
今住んでいるマンションは平成に建築されましたが、1部屋は和室でした。
その和室も、私の意向で令和になる前にフローリングにリフォームしています。