NHK大河ドラマ『真田丸』でもおなじみですが、私世代は「真田十勇士」で、若い方はゲームを通して知った方が多いのでしょうか。
今から400年ほど前、戦後最後の合戦「大坂の陣」で華々しく活躍した武将です。
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目次
幼少期から青年期までずっと人質
生まれた場所は甲斐、真田家は武田信玄の家臣として、母親(石田三成正室の姉との説もあり)とともに人質の身だったのです。
しかし、1582年、武田氏は滅亡。
今度は信繁は織田信長の人質になりますが、その直後に本能寺の変で信長が倒れたため、真田家は情勢に応じて、北条、上杉、徳川と風見鶏のように従う相手を変えていきます。
信繁はそのたびに新たな主人のもとに人質に出されました。
まだ10代…
真田が全国に知れ渡ったのは徳川との一戦でした。
そして、次に目をつけたのが豊臣秀吉。
信繁はまた豊臣に人質に出されます。
1590年小田原合戦では信繁は活躍します。秀吉の天下統一に貢献したので、20代の信繁は人質ではなく、秀吉の家臣となります。
秀吉の馬廻りという親衛隊に加わり、1万9000石を頂戴します。
天下分け目の戦い
関ケ原の合戦で、栃木県で「真田会議」を開きます。
真田家を存続させるために、兄の信之は東軍に、父親と信繁は西軍につきます。
西軍が敗けたため、父親と信繁は九度山に幽閉されます。
上田藩主となった信之が命乞いをしてくれたおかげで、処刑はまぬがれました。
真田信之が真田家を存続させてくれ、それは現在まで長く続きます。
信之の妻は、徳川四天王の本多忠勝ですからね。信繁の妻は、秀吉の家臣大谷吉継です。
九度山からの脱出
そして10年以上の幽閉生活。
豊臣側から、オファーのあった真田信繁は、九度山を脱出します。
監視の役目を担っていた村人たちを酒に酔わせ、家族と少ない家臣と共に大坂へたどり着きます。
大坂の陣
信繁は、徳川との戦いで活躍します。
小賢しい徳川方からの「徳川につかない?」(豊臣からの給料の20倍だすよ)という誘いも断り、和睦にまでこぎつけるます。
しかし、徳川のずるいやり方で大坂城の堀は埋められ、不利な状況にもっていかれてしまいます。
最終決戦、信繁は作戦のすれ違いもあり、数に勝る徳川軍に攻められます。
安居神社にて、馬から降りて松の木にもたれかかっていたところを襲われます。
慶長20年5月7日のことです。
西暦ですと1615年6月3日、410年前の今日です。
真田信繁の妻や娘たちは脱出し、長く生き続けることになります。