最近1週間に1本、大学のレポートを書いている。
書かない時は1か月も2か月も1本も手をつけない時期もあるのに。
先週は縄文文化についてのレポートを書いた。
今週は弥生文化についてのレポートを書いている。
目次
縄文文化と弥生文化の違い
皆さん、ご存じのようにそれは稲作があったかなかったかの違いである。
ただ近年その農耕論については、地域によっての差があったり、文化の流れが東から西であるとは限らないという説もありなかなか難しい。
弥生文化
稲作
紀元前500~400年頃、北九州に上陸した朝鮮からの農耕文化の急激な影響によって、西日本は弥生時代に移行する。
これ以後弥生化した地域において急激に遺跡の数が増え始め、遺跡の規模が拡大する。
本格的な食料の生産が開始されたのである。
弥生時代の水稲耕作は、それまでのクリ林の人為的拡大などの自然の改良とは違い、水田を開拓し、水路によって水を引き、
縄文時代から弥生時代へ
縄文時代から弥生時代への移行は、生産様式の大転換という大きな変化であったが、文化の担い手がまったく入れ替わってしまったわけではないから、縄文の伝統がすぐに消えたわけではない。
各地の土器の文様にはその地域ごとに縄文と弥生の間でつながりが見られるし、縄文の打製石器のほか、狩猟、漁労の道具と方法などは縄文の伝統を多く引き継いだ。
北九州
弥生文化形成の主原因となった朝鮮半島から文化と人がトライした地であるためである。
そこから離れるほど縄文文化の伝統が強く残った。
「続縄文」文化
北海道
そして津軽海峡を越えた北海道では、弥生文化の基盤である稲作が伝播しなかったために、縄文文化そのものといってよい文化が継続することになった。
「
4、5世紀には政治的統合をともなって東北地方の真ん中あたりまで及んだ古墳文化も、それよりも北の地域には間接的な影響を及ぼしただけで、そこにはしだいに蝦夷と呼ばれる人たちの文化が形成されてくることになった。
8世紀頃には雑穀の栽培も行われるようになったが、依然としてサケなどの漁労と狩猟も重要であった。
これを擦文文化 と呼ぶ。
この擦文文化と並行する形で北部と東部のオホーツク海に面する地域を中心に独特のオホーツク文化が展開する。
樺太方面から南下した漁労と海棲獣の狩猟を主要な生業とした人たちの文化である。
その伝統も取り込んでアイヌと呼ばれる人たちの文化が生まれたと推定される。
沖縄
また沖縄においても弥生文化が受け入れられず縄文の伝統の強い文化が残り、それが独自の変化をして貝塚時代後期文化を形成した。
独自の文化が形成された背景のひとつは、北海道と同様に稲作の受容が遅れたことにあるらしい。
温暖であるにもかかわらず沖縄で稲作の受容が遅れたのは、初期の技術で水田として利用可能な沖積地が乏しいこと、水田に
強大になった中山王朝が統一を果たし、琉球王国を築いたのは15世紀のことである。
身体的形質
人類学の研究によると、朝鮮からの渡米人の遺伝子による身体形質が弱められた西日本から離れるほど、縄文人の遺伝子による身体形質が強く残ったという。
とくに沖縄ではその要素がかなり強く、北海道のアイヌの間ではもっと強く残ったとされる。
本日の参考文献はこちら
最後に
縄文文化のレポートと弥生文化のレポートと書いて、その間の「続縄文」文化について書く場所がなかったので、ブログで書いてみました(笑)
独りよがりのブログでごめんなさい。
一昨日のNHK歴史秘話ヒストリア「謎の古代遺物がモノ語る」は面白かったです。
戦国時代も面白いですが、たまに古代ロマンに目を向けると新しい発見があります。
最後までお付き合いくださった方、どうもありがとうございます。